カミソリ大臣と呼ばれたやり手の外務大臣 陸奥宗光
陸奥宗光は紀州藩士の六男として天保15年(1844年)に誕生しました。
明治政府ではカミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣で外務大臣として活躍しました。ではなぜ陸奥宗光はカミソリ大臣などと呼ばれたのでしょうか。
カミソリ大臣と呼ばれた理由
陸奥宗光はとても頭がよく、若いころ行動をともにしていた坂本龍馬からは「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは俺と陸奥だけだ」と言われたほどです。つまり、武力がなくても知力で世の中を渡っていけるということでしょう。
また、彼は努力家でもあり、西南戦争の後、政府転覆を企てたとして禁固5年の刑に処せられていますが、服役中も自著を執筆したり、イギリスの功利主義哲学者・ベンサムの著作の翻訳にも取り組んでいました。出獄後は伊藤博文の勧めでイギリス留学をし、民主政治についての知識を得たり、ウィーンでシュタインの国家学を学知識を深めました。
そんな博学で頭の良い陸奥をもって人々は「頭の切れる者(頭の回転が早い)」という意味を込めてカミソリ大臣と呼びました。
さらに陸奥は、たとえ上司であっても自分が認めた者ではないと命令を無視したり、辞表をたたきつけたりしていたそうです。逆に自分の上司としてふさわしいと認めた人物には従順に接し、この人の為ならばとその才能を発揮したそうです。
つまり、「(陸奥の)使い手(上司)の技量が問われ、使い方を間違えるとケガをする」という意味もカミソリという言葉にこめられていたそうです。
カミソリ大臣の仕事ぶり
そんなカミソリ大臣こと陸奥宗光は、明治21年(1888年)駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコとの間に日墨修好通商条約を締結しました。これは日本にとって初の平等条約であり、メキシコにとっては初のアジアの国と締結した条約でありました。
また第二次伊藤内閣では外務大臣に就任し、明治27年(1894年)日英通商航海条約を締結しました。これは幕末から続く不平等条約である治外法権の撤廃がなされた、日本にとって悲願のものでした。
そして、同年には日清戦争がはじまり、戦勝後は日本にとって有利な下関条約を結びました。陸奥のおかげで日本は世界的に平等、またはそれ以上の外交ができるようになったのです。
晩年の陸奥
そんなカミソリ大臣も病気を切ることはできず、肺結核のため54歳の若さで亡くなってしまいました。
病床では親友の中島信行に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と言ったと伝えられています。
妻子と別れることよりも、政治から身を引くことの方が辛いと口にするほど、陸奥は政治が好きだったのです。