殉死をした乃木希典 子孫は現在もいる!?
陸軍大将で、明治天皇崩御の際に殉死を果たしたことで有名な乃木大将。彼の子孫は現在は存在しているのでしょうか?
彼の息子たちはどうなってしまったのでしょうか?
乃木大将の子ども
乃木希典は1878年、旧薩摩藩医の娘であるお七(後の名を静子)と結婚しました。
結婚当初は花柳界に入りびたりだった乃木は、祝言にも遅刻するほど放蕩生活を送っていたそうです。そんな中で始まった結婚生活ですが、1879年(明治12年)8月28日には長男が、1885年(明治18年)5月21日には次男が誕生しました。この二人の他にも夫妻には三男と長女が誕生していますが、生まれてすぐに亡くなってしまったそうです。
長男:乃木勝典
乃木希典の長男は勝典といいます。希典が1904年日露戦争における第3軍司令官に任命され、広島の宇品港から戦地に出発する直前に勝典は南山の戦いにおいて戦死を遂げました。
勝典は第2軍に配属されていましたが、この南山の戦いでは敵の倍の兵を擁した第2軍でしたが、機関銃を用いたロシア軍の必死の抵抗に遭い、総兵力の10%を超える人員を失ったとされています。
勝典はこの戦いの最中5月27日にロシア軍の銃弾が腸部に直撃し、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き出血多量で亡くなりました。
長男の戦死を知った希典は妻・静子に「名誉の戦死を喜べ」と電報を打ったと言われています。
次男:乃木保典
1904年ロシア帝国が主力艦隊の母港としていた旅順港を守る旅順要塞を攻略し陥落しようという旅順攻囲戦において、11月30日第3回総攻撃に参加していました。
次男の保典はこの203高地攻略とも言われるこの戦いで、ロシア軍の砲弾を至近距離で受け、その弾みで岸壁から滑落し岩場に頭部が激突したことが原因で戦死します。
保典の戦死を知った希典は「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳がたつ」と言ったとされています。息子や夫などを戦地に取られ亡くしてしまった世間の人のことを思った言葉だと思います。逆に国民は二人も息子を相次いで亡くした乃木に大変同情したそうです。
乃木の殉死のきっかけは息子の戦死?
乃木は明治天皇の崩御後、妻と共に自殺し殉職しました。その理由については西南戦争時に連隊旗を奪われたこと、日露戦争で数多くの犠牲者を出してしまったことと遺言に記していたそうです。
息子2人の戦死については自殺の理由にはならず、「愚父ノ面目ヲ添ヘタル」と逆に息子たちが面目を保ってくれたとしています。

By: saname777
乃木大将の子孫は現在もいる?
生まれて間もなく亡くなってしまった三男、長女については言わずもがなですが、戦死した二人の息子にはまだ子どもはおらず、これによって乃木の直系の血筋は途絶えました。
また、日露戦争で約6万人という犠牲者を出したことに責任を感じ「幣家ハ小生トモ一代」で終わると、乃木家断絶を決意しています。息子二人を亡くしたことに同情した陸軍の部下である佐藤正の養子縁組の勧めも、その理由によって断っています。
さらに元主君であった長府毛利家が乃木の死後毛利元智を養子とし乃木家の再興をはかりました。しかし、長府毛利家のその行為は政治利用だと批判を受け、元智は子爵の称号と共に乃木家の姓を返上しました。
以上のことから、乃木希典の子孫は現在存在しません。
ちなみに乃木は殉職の際遺書を数点書き記していますが、そのほかのことについては妻の静子に聞けと言っていたそうで、自分一人で死ぬ決意だったそうです。しかし、静子は乃木が割腹するのとほぼ同時に懐刀で心臓を刺し、乃木にやや遅れて絶命したということです。