クリスマスは休みたい! 爆死で有名な松永久秀が行った驚きの休戦戦術!
松永久秀といえば、何度も織田信長を裏切ったり、最期はお気に入りの茶釜と爆死したなど、戦国時代でも独特の存在感を放つ人物です。
この久秀の驚きのエピソードとして、クリスマスは戦いたくない!
休戦しようなんて、戦術を使ったという話が伝わっています。
現代ならまだしも、戦国時代においてどうやってそんな戦術を行ったのか見ていきましょう。
クリスマス休戦を行った時期
三好長慶に仕えていた松永久秀は、1564年に長慶が死去するとしばらくの間は、長慶の甥である三好義継を担いで、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)とともに三好家を支えていました。
しかし、1565年頃になると、松永久秀と三好三人衆が畿内の主導権を争って対立するようになり、11月16日に三人衆は久秀と関係を断絶し、内乱が勃発しました。
この内乱の間の1565年~1566年頃の降誕祭(クリスマス)の時に、久秀が日本で最初にクリスマスを理由に休戦を命じた(あるいは応じた)と言われています。
『大日本史』に見えるクリスマス休戦
実はこのクリスマス休戦の話は、日本の歴史書などには記録がされておらず、エピソードの元となったのは、ルイス・フロイス作の『フロイス日本史』の記述によるものとされています。
フロイス日本史にはこの様に書かれています。
降誕祭(クリスマス)になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士たちが見受けられた。(中略)ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたのにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。(後略)
松永久秀とその部下はキリシタン!?
松永久秀は元々日蓮宗の信徒であり、当時の日蓮宗(法華宗)の教義からすると、彼はキリスト教だけではなく、他の宗教に対して否定的であったのではないかと推測できます。
実際に久秀は、1565年に発生した時の将軍、足利義輝を殺害した永禄の変の直後にキリシタン宣教師を追放したと伝わっています。
しかし、彼の甥の内藤如安や、家臣の結城忠正、高山友照らはキリスト教に改宗しています。
つまり、久秀が他宗教に対して排他的であったとしても、部下の者たちがミサに参加したという『フロイス日本史』の記述は否定出来ないのではないでしょうか。
休戦をした理由
久秀がクリスマス休戦をした理由としては、当時堺に滞在していた、キリスト教イエスズ会宣教師のルイス・フロイス(先述の『フロイス日本史』作者)が、両軍のキリスト教を信仰する武将たちがクリスマスのミサに参加できるように持ちかけたとされています。
そして、両軍でその要請が許可され、キリスト教を信仰する武将たちがミサに参加することになったので、その日は戦闘が起きなかった(できなかった)のです。
また、松永久秀はこの戦の中で、劣勢に立っていたため、このフロイスの要請は骨休めのいい口実になったと言われています。
策略なのかは定かではありませんが、日本史における初のクリスマス休戦はこの様に行われたとされています。