犬養毅が「話せばわかる」と自分を襲った暴漢に伝えたかったものとは?
第29代内閣総理大臣に就任した犬養毅(いぬかい つよし)。
彼は1932年5月15日に武装した大日本帝国海軍の青年将校によって襲撃されて命を落としました。
その時犬養は暗殺犯たちに「話せばわかる」と言ったと言われていますが、何を伝えたかったのでしょうか。
五・一五事件とは
1929年の世界恐慌に端を発した大恐慌に巻き込まれ、日本も困窮していました。特に農村の貧窮状態が事件の背景となっています。
軍隊の中には農村から徴兵された者も多く居り、農村の貧窮は軍隊にとっても他人事ではありませんでした。
さらに第一次世界大戦後、平和主義の気運が高まっていたことから、軍隊は肩身の狭い想いをしていました。そんな折り、1931年に関東軍の一部が満州事変を起こします。
この満州事変によって景気が上昇したことは、軍隊にとって自信を取り戻すよい機会でした。世論にも軍人に国家革新を求める声が出てきました。
こうしたことがあり、軍人の中には自分たちが世の中を変えるのだ、汚職と政争に明け暮れた政治家たちを一掃すれば国家は安定するはずだという考えを持ったものがいました。
そうした軍人たちは1932年5月15日、首相官邸・内大臣官邸・立憲政友会本部・警視庁・変電所・三菱銀行などを襲撃しました。
そこで当時の内閣総理大臣であった犬養毅は凶弾によって命を落とすこととなりました。これが五・一五事件です。
海軍将校が事件を起こしたワケ
そもそも海軍は、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理である若槻禮次郎に対して不満を持っていました。
そこで若槻を襲撃する予定でしたが、1932年の選挙で犬養に大敗し、若槻は退陣を余儀なくされました。
これで事態は収拾すればよかったのですが、若槻襲撃計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」という遺言を残して自殺。
この藤井と同志的な関係であった海軍中尉:古賀清志が藤井の遺志を継ぎ、海軍将校たちなどを取りまとめ、血盟団事件に続く昭和維新として首相襲撃を決行しました。
犬養が護憲派の重鎮で軍縮にも賛成していたことも海軍青年たちにとって気に入らない点でありました。
「話せばわかる」犬養毅は何を伝えたかったのか
首相官邸を襲った中の一人、元海軍中尉三上卓の証言によると、犬養毅は「まあ待て、そう無理せんでも話せばわかるだろう」と2、3度繰り返したと言います。
これまでも武力による政争ではなくて、話し合いで解決してきた犬養毅(満州事変も中華民国との話し合いで解決しようという意欲を持っていたことを評価され首相に選ばれました)。
襲撃してきた将校たちの人数も少なかったことから、これからの政治や日本のあり方を将校たちに話して説得すればわかってもらえると思ったのでしょう。
しかし、暴漢たちは「問答無用」と犬養を撃ち捨てました。犬養は即死には至らず、ピストルの音を聞きつけて駆け付けた女中に「今撃った男を連れてこい、よく話してきかすから」と言ったとされています。
この事件には中国強硬派で後に日本の中国侵略に大きく貢献した、帝国主義者の森恪の手引きがあったのではないかという説もあります。
世論も腐敗した政党政治ではなく、軍部に期待を寄せていたので、もしこの時犬養が殺されなかったとしても犬養が首相である限り命は狙われ続けていたかもしれません。

By: ume-y
この事件の後世への影響
この事件を起こした青年将校たちは軍法会議にかけられたが、首相殺しをしたにも関わらず比較的軽い刑で済みました。
ここから「話せばわかる」の政党政治・議会制民主主義から「問答無用」軍閥主義へと機運が変わっていきます。
ここで暗殺犯たちを徹底的に糾弾し、極刑に極刑に処していればさらに大がかりな二・二六事件や太平洋戦争に繋がることはなかったのではないかと言われています。
しかし、メディアも軍を称賛する記事をこぞって書き始め、先述した通り世論も軍閥主義に傾いていました。
こうして日本は開戦への道へと歩き始めていったのです。