岩倉具視だけがちょんまげ姿! 遣欧使節の時の秘話
1872年、岩倉遣欧使節団がサンフランシスコで撮影したという写真を見ると、他の人物はみな洋服姿で断髪をしているのに、岩倉具視だけが着物姿でちょんまげという出で立ちで写っているのが確認できます。
明治に入り、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と言われたくらい、ちょんまげを切り落として服装も西洋のものを取り入れようとしていた時代になぜ岩倉だけがこのような姿で外国に渡ったのでしょうか。
ちょんまげ姿は日本人の魂!?
明治の時代に入ると、政府は服装や髪形も西洋のものを取り入れるように改革を進めてきました。ちょんまげという髪型は欧米人にとって奇怪なもので、それをしていてはいつまでも「文明遅れの野蛮人」とみなされてしまい、近代化を目指す政府にとってはとても困ることだったのです。
しかし、ちょんまげは鎌倉時代からつづく日本の文化であり、政府がどれだけちょんまげを辞めさせようと思っても、まだまだ断髪をしない人々はたくさんいました。ちょんまげを切り落としたことで離婚にまで発展する夫婦も珍しくなかったといいます。それほどちょんまげは日本を代表する文化、日本人の魂だったのです。
岩倉具視も西洋の科学や文明には高い評価をしていましたが、文化面においては日本の伝統文化を重んじており、西洋化はしてもこのちょんまげだけは辞めることは反対だったそうです。そういった理由から、遣欧使節団の中で岩倉だけが、ちょんまげで着物姿という出で立ちだったということです。
アメリカ人は岩倉を熱烈に歓迎した!?
そんな姿でやってきた岩倉の下に、アメリカ人は熱烈に歓迎してくれました。しかし、それは日本の文化を理解してくれたというわけではなく、むしろ物珍しさに見世物としてやってきただけだったのです。つまり、岩倉のことを一段下に見て、笑い者にしていたのです。
最初のうちはアメリカ人の歓迎ぶりを見て、日本のトップに敬意を表しているのだと思って喜んでいたそうですが、あまりにも来客が多いので不審に思った岩倉の息子が調べさせると、岩倉の格好が面白いから見に来たということがわかりました。
息子の助言で断髪を決意
自分の姿が見世物にされているということを息子に教えられた岩倉は、日本の全権大使である自分がこのような侮辱を受けていたら、日本自体が古い考え方に固執した文明遅れの国だと思われてしまうと思い、断髪を決意し、服装も洋装に替えてアメリカの首脳との会談を行ったそうです。
西洋風の髪型・服装にすることは、世界の主流についていっているという格好のアピールポイントだったのです。
その後、岩倉らが帰国すると、明治天皇も岩倉に倣い、まげを落としました。日本の高官である岩倉と、天皇がまげを切り落としたということで、それまでまげを切ることを嫌がっていた保守派の人間もちょんまげを切り落とすということが一般の人たちにも波及し、新政府が目指した近代がさらに進んだのです。