後藤又兵衛の子孫は大坂の陣の後どうなった!?
大坂の陣で見事な戦いぶりを見せた後藤又兵衛は、もともとは黒田藩の家臣で、関ヶ原の戦いでは、東軍として戦っています。
その後、理由は定かとはされていませんが、黒田家を出奔、各地を放浪の後、大坂の陣の前に大坂城へ入城しています。
一説には黒田長政とはそりが合わなかったという逸話が多く残っており、そのせいではないかと言われています。
彼の大坂の陣での活躍とその子孫についてみてみましょう。
大坂冬の陣
又兵衛は、大変有名な名将だったので、黒田藩出奔後も、多くの大名から仕官を望まれたのですが、その都度黒田藩の横やりが入ります。
最終的に大野治長の誘いもあって、大坂の陣の前に豊臣家に仕官するのです。
彼は、大変人望があったようで、旧家臣たちも続々と大坂へ集まってきました。
そして、大坂冬の陣が始まります。
大坂城での籠城作戦となったため、又兵衛は参謀として秀頼と行動をともにします。
しかし、秀頼の命令で今福の戦いでは木村重成らとともに佐竹軍の攻撃を受けていた豊臣軍を救援し、見事佐竹軍を撤収させます。
また、真田丸での戦いでも幸村とともに活躍しました。
大坂夏の陣
冬の陣のあと、家康の術中にはまってしまい外堀を完全に埋められてしまった大阪城では、もはや籠城はできません。
残された手段は、真田幸村らとともに大坂城から打って出るしかありませんでした。
又兵衛は、1615年4月30日真田幸村らとの話し合いの中で道幅の狭い国分あたりで大軍である徳川軍を迎え撃つことを強く主張します。
幸村は、当初四天王あたりでの決戦を主張しますが、結局この又兵衛の作戦に落ち着きます。
いよいよ決戦前夜5月5日。又兵衛自身も討ち死に覚悟での出陣でした。そして、真田幸村、毛利勝永らと訣別の杯を交わしています。
翌5月6日未明に予定通り道明寺あたりに到着したのは後藤又兵衛隊だけでした。このときすでに徳川方は、国分に到着しており、又兵衛にとっては大きな誤算となりました。
先鋒だった又兵衛は、勝機がないと悟ったのか時期を逃すまいとしたのか定かではありませんが「もはや友軍を待てない」とばかりに、小松山へ単身進軍を決めます。
このとき、又兵衛は「死にたくないものは去れ!」といいますが、彼の人柄に惚れ込んでいた家臣は、誰1人として立ち去らなかったという話が残っています。
そして、孤軍奮闘しますが、やはり多勢に無勢です。
友軍の到着前に又兵衛は、7時間にも及ぶ死闘の末、最後を迎えます。その最後は壮絶に戦っての討死でした。
この名将の死は、豊臣方の大きな痛手となったことは間違いありません。
この道明寺の戦いの後、5月7日天王寺口での戦いを経て翌8日に大阪城は落城し、秀頼もまた自害をして果てます。
後藤又兵衛の子どもたちのその後
毛利勝永らの直系の子どもたちは、斬首されましたが、又兵衛の子どもたちはどうなったのでしょうか。
又兵衛には、6人の男の子がいました。
長男:左門
父が豊臣方についたため切腹。
次男:弥八朗
父が豊臣方についたため切腹。
三男:佐太郎
大坂城へ人質として父と一緒に入城しています。そして、父の死後、大坂城から逃れ、淡輪あたりで百姓として59歳でその生涯を閉じています。
四男:又市郎
細川家に使え、細川家が肥後へ領地替えになったときは、ともに肥後へ向かっています。
五男:吉右衛門
後に京都で医学を学び「玄哲」と名乗り医者となっています。
六男:久馬之助
父が討ち死にしたときはわずか2歳でした。母(池田家の家臣三浦主水の娘とも妹ともいわれる)とともに大坂城より逃れ、後に三浦の家督を継いでいます。
娘たち
4人の娘たちは、それぞれ武家の妻女となっています。
後藤又兵衛の子どもたち男子6人女子4人のうち、大坂の陣の後も長男次男以外は、それぞれ天寿を全うすることができたとされています。