関ヶ原の戦い その時の伊達政宗は領土拡大のために動いてた!?
天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いは、諸将が東軍と西軍に分かれて戦った、非常に大規模な合戦でした。
しかし、東北の地でも戦いが繰り広げられていたのです。
その中にあった東北の雄:伊達政宗には、様々な思惑があったようです。
そのあたりをよく見ていきましょう。
関ヶ原の戦いに政宗が参戦しなかった理由
1600年(慶長5年)に石田三成が挙兵した際、政宗は、徳川家康に従い会津の上杉征伐に参加していました。この時には宮城の白石城奪回に成功しています。
三成の挙兵の報せを受けた家康は、小山の地から西転し関ヶ原へと向かいます。
このとき、家康は政宗に対して「百万石のお墨付き」という覚書を送りました。
この内容は、家康側についたならば、かつて豊臣秀吉に没収された旧領6郡49万石を回復することを許すというものでした。
そのため、政宗は上杉方との戦いに集中し、結果として上杉の南下を阻止したのです。
関ヶ原の戦い中の政宗の動き
三成挙兵~関ヶ原の戦いの間、政宗のいる東北では、上杉方の武将直江兼続が最上領内に侵攻してきました。
最上義光(もがみよしあき)は政宗の叔父にあたり、彼に救援を要請された政宗は兵を派遣します。
これが長谷堂城の戦いですが、関ヶ原の決着がかなり早くついたことにより、直江軍は撤退します。
政宗も軍を率いて出陣し、福島城まで攻め込んで包囲戦を展開しますが、上杉家の重臣本庄繁長(ほんじょうしげなが)の堅い守りにより、落とすことができません。その後も何度か攻城を試みますが、うまくいきませんでした。
また、政宗は旧領奪回を目指す和賀忠親(わがただちか)を扇動し、彼の旧領を支配する南部氏に対して反乱を起こさせ(岩崎一揆)、兵を派遣して支援も行いました。
混乱に乗じて領土を拡大することが彼の目的だったのです。ただこの一揆も鎮圧され、やがて詳細が家康の耳に入ってしまいます。
当然のことながら、以前の「百万石のお墨付き」は反故にされてしまいました。
結局、政宗は60万石にとどまり、希望していた恩賞は追加してもらえなかったのです。
徳川方と石田方どちらの味方をしたのか
上杉方を会津から南下させず、関ヶ原に向かう家康の背後の安全を保障し、政宗は間接的に徳川方についたことになります。
また、政宗は、娘の五郎八(いろは)姫を家康の六男:松平忠輝に嫁がせていました。
これで伊達と徳川は姻戚関係となり、政宗が家康に付く十分な理由となりました。
ただ、野心にあふれた政宗は、隙あらば自身の領土拡大を狙っていたため、前述の岩崎一揆の陰で糸を引くなど、この時点では心から家康に臣従していたわけではないようです。

By: kazuletokyoite
まとめ
100パーセント従うことなく、あわよくばさらに上を狙う政宗の姿勢は、ある意味戦国大名の鑑にも思えますよね。
持っている頭脳、武勇、権力すべてが際立っていたからこそ、政宗は常に勝負に出たのだと思います。
結局それが実を結ばなかったわけですが、江戸時代になると政宗は藩政に力を入れ、仙台藩の基盤を固めていきます。
死の床にあっては将軍徳川家光が直接見舞うほどで、幕府内で政宗が確固たる地位を築いていたことがわかります。
徳川にも太刀打ちはできないと悟って、潔く政宗は臣従を誓ったのですね。その潔さもまたカッコ良いではありませんか。