伊達政宗の兜に込められた意味とは
伊達政宗といえば、特徴的な兜で知られます。
あの三日月の兜=政宗であるともいえるかもしれません。
では、政宗はなぜあのような兜を用いたのでしょう?
その秘密に迫っていきたいと思います。
戦国武将は派手好き?
政宗だけでなく、戦国武将の兜は大抵派手で特徴的です。ちょっと画像を探すだけでも、色々と面白い画像が出てきます。
昨今はゲームなどで特徴的な兜が出てきたりしますが、全くの想像ではないようです。
直江兼継の兜なんて、頭上に「愛」って掲げられてますし、豊臣秀吉も頭上に放射線状のなにかがありますものね…。
戦国武将にとって、兜の特徴は「主張」です。どれだけ強く自己アピールをするかが大事だったのかもしれません。
それに大将は滅多に戦わなかったようなので、多少動きにくい兜だろうが構わなかったのでしょう。色々と面白い兜がありますが、あれをかぶって戦闘するのは無理があると思います。
妙見信仰
当時は「妙見信仰」というものが武将達に広まっていました。「妙見信仰」というのは、星や月を信仰するものです。もともとは周りが動いても動かず、目印となる北極星を神格化し「妙見菩薩」として武運を祈願したのが始まりです。
それが応用されたのか、月に対しても信仰があったようですね。月というのも神秘的な対象とされていたようですが、「妙見信仰」によって月への信仰も加速したといえます。
ですので、戦国武将はよく星や月を兜のモチーフに取り入れたようです。
政宗の三日月も、この「妙見信仰」に由来すると思われます。
余談ですが、武将の兜に兎を思わせる長い耳のようなものがついているものがあるのは、この信仰に由来するのではないでしょうか。
月=兎という連想が働いて、月に武運を祈願する意味で兎の耳をモチーフにしたのではないかと思われます。
伊達者
いつから政宗がこの兜を利用していたのかは定かではありませんが、1593年文禄の役で出陣したおり、政宗が伊達家にあつらえさせた戦装束は豪華絢爛で、道中の人々を感嘆させました。このようなエピソードがあるということはこの前後からあの特徴的な兜を使用するようになったのではないか、と推察します。
伊達者と言うのは「派手な装いを好み、それを着こなす人」のことを言うようですが、もともとは「黒い中に一点だけ赤を入れて目立たせる」という着こなしを言ったのだ、との説もあります。
伊達家の甲冑は足軽にいたるまで全身黒ですし、後者の説がもともとあったのかもしれませんね。ただ全身黒だったのは、頭上の月を目立たせるためともいわれます。

By: Nobuyuki Kondo
派手さは演出?
とにかく派手な兜。また死に装束で秀吉のもとに出向いたとか、黄金の磔を持って秀吉のもとへ参じたなど、わりと派手なパフォーマンスをすることが多い政宗ですが、これは政宗の好みなのでしょうか?
政宗の好みと言うより「秀吉が派手好きだから、秀吉に気にいられるため」にわざと派手にしていた印象を持ちます。秀吉に気にいられて出世したかったのかも知れませんね。
実際、天下をねらっていた節があります。ですが、徳川家康の予想外の長寿により、政宗は天下を取る機会がありませんでした。
最後の戦国武将
政宗が生まれたのは1567年、秀吉が全国を統一したのは1590年。1598年には秀吉が没し、1603年に家康が徳川幕府を開きます。
政宗があと10年ほど早く生まれていたとしたら、ひょっとしたら天下を取ったのは政宗だったかもしれません。生まれるのが少し遅かったゆえでしょうか、「最後の戦国武将」とも称されます。
それにしても、1603年に江戸幕府が開かれたということですから…政宗が36歳の時以降は、あの兜を使うこともなかったのですね。せっかく意匠に凝った兜がもう使われないとは、何とも勿体なく感じます。