天皇になりたかった!? 足利義満の野望と狙いとは?
室町幕府第3代将軍・足利義満。
日明貿易や金閣寺の建設で知られる彼は、皇位簒奪(本来皇位継承権がない者が天皇の地位を奪取すること)を狙っていた、または自身の子を天皇位につけようとしたという説があります。
それはいったいどういうことだったのでしょうか。
義満の皇位簒奪(こういさんだつ)説
この説は、国史学者の田中義成・今谷明が唱えたものです。
その根拠として義満は、
- 花押(署名の代わりに使用される記号)を使い分けていた。
- 二番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の生母と同等の地位を与えられた女性)および女院(天皇の生母や内親王などが院号を受け、上皇に準じた対応を受ける者)とした
- 公家衆の妻を自分に差し出させていた
- 人事権・祭祀権を天皇家から取り上げていた
- 義満の参内や参詣の際は上皇と同等の礼遇をとらせた
- 次男・義嗣の元服の儀を親王に準じた形式で行った
以上のようなことから、義満は皇位簒奪を狙っていたのではないかと田中・今谷は述べています。
また、義満の母方の祖母が順徳天皇の曾孫であると言われたため、義満は自分も天皇の血筋を引いているという思いがあり皇位を狙ったという説もあります。
息子を天皇にしたかった
皇位簒奪といっても、義満自らが天皇になりたかったというわけではありません。
自分は地天の君(天皇家の家長。上皇や法王の中でも、天皇の任命権を持つ者。)となって、溺愛していた次男の義嗣を天皇につけたかったのです。
そのために上記のような行動をとったり、当時の中国である明から「日本国王源道義」の符号を与えてもらい、外圧をも利用して皇位簒奪を狙っていたといいます。
本当に皇位を狙っていた!?
当時の公家の日記では、このような義満の行動を皇位簒奪の計画の一環であるとしたり、義満の死は彼の皇位簒奪を阻む者による暗殺だというようには書かれていません。
ですので、義満による皇位簒奪もそれに伴う義満暗殺も、直接的な根拠のないものとされ、近年では皇位簒奪はなかったという考え方が主流です。
仮に本当に皇位簒奪を狙っていたのだとしても、それは義満一人の考えであるとされ、義満の嫡子である義持も、幕府で管領として権勢を振った斯波義将も関わっていません。
義満の死後
義満が亡くなったのち、朝廷は『太上法王(出家した元天皇(上皇)の尊称)』の追号をしました。しかし、義持ら幕府側はこれを辞退しています。
死後には天皇よりも上の位に立てた義満ですが、子・義嗣を天皇位につけるという野望は失敗に終わってしまいました。
幕府だけではなく、朝廷や外交に関しても権威を奮った義満も、病には勝てませんでした。