織田四天王の一人 滝川一益は忍者だった説を検証してみる!
鉄砲の腕を買われて織田信長に仕え、数々の武功をあげた滝川一益。
彼は忍者の頭目であったといわれていますが、本当のことなのでしょうか?
甲賀忍者だった?
- 甲賀忍者で現在も有名な、近江国甲賀(現・滋賀県甲賀市)の出身であるという説(他にも伊勢出身説、志摩出身説がある)
- 甲賀二十一家のうちの一つ、伴氏の末裔であるという説
- 豊臣政権三中老とされる中村一氏は甲賀五十三家の一つ、瀧氏の出身だと言われ、一益と同族とする説
以上のようなことから、滝川一益は古くから忍者だったのではないかと言われてきましたが、その根拠ははっきりしていません。
そもそも忍者とは
忍者は大名や領主に仕え、または独立して諜報活動や暗殺、破壊活動などをするとされる者のことです。
忍術(諜報活動などをするときの技術または対応法の総称。活動中に必要になる各種の武術が含まれることもある)を身につけています。
その忍術に使用される様々な武術の中に薬学があり、主に毒薬や火薬などを製造したり改造する技術です。
一益の出身地とされる甲賀は当時火薬製造の中心地であったこと、また一益が当時の最新兵器だった鉄砲術に優れていたということからも、一益が忍者だったのではないかという説が持ち上がったとされます。
甲賀五十三家・甲賀二十一家
甲賀五十三家とは、「鈎(まがり)の陣」において六角氏(近江南部を中心に勢力をもった武家)に味方した甲賀の地侍五十三家で、その中でも六角氏からの信頼が厚かった家々を甲賀二十一家といいます。
これらは後の甲賀忍術の中心となった家々です。
しかし、ご先祖さまが忍家だったといっても、一族全員が忍者なるとは限りませんよね。
信長に仕えるまで
大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清(二人は同一人物とする説もある)の子として生まれたとされていますが、定かではありません。
また、信長に仕えるまでの半生もはっきりとしていない人物です。
しかし、後年に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に宛てられた書簡に「滝川家はそれなりに由緒ある家だが、一益は博打を好み不行跡を重ね、一族から追放されて、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれています。
また、若年の頃に河内国堺において鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされます。
※『寛永諸家図伝』には「幼年より鉄砲に長ず。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」と書かれている
当時、最新兵器だった鉄砲を使いこなした一益の報は信長の下にも届き、信長はすぐに一益を呼び寄せました。
そして、信長の前で百発百中の腕前を見せつけることができた一益は、大いに信長に気に入られて召し抱えられることになったとされています。
信長の家臣となった時期
信長に仕えた時期もはっきりとはしていませんが、『信長公記』によると、弘治2年(1556年)7月に信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があります。
また、一益の一族とされる慈徳院が、信長の嫡男である信忠(生年は1555年または1557年とされる)の乳母でした。
これらのことから、一益は1555年~1557年の間に信長に仕官したのではないかとされています。