明智光秀は鉄砲の名手だった!? 精度は100発100中らしい…
歴史上の人物って、「実は○○だった!」という話、ありますよね。意外な特技や才能の逸話を聞くと、自分の中でのその人物の株が急上昇してしまったりして、一気にファンになってしまうこともあると思います。
今回もそんな人物をひとりご紹介します。
逆臣・主殺し・三日天下…まったくありがたくない代名詞をつけられた戦国大名の筆頭格・明智光秀です。
織田信長に仕える前の動向
明智光秀の出自ははっきりとはわかっていませんが、美濃国に生まれました。
織田信長と結婚する事になる、斎藤道三の娘:濃姫と従兄弟だったなんていう説もあります。
斎藤道三に仕え、その後、越前の朝倉義景に仕えたと江戸時代中期の軍記物「明智軍記」には書かれています(「明智軍記」は作者不明であり、歴史的資料価値も低いと言われていますが、ここに記されているエピソードについては研究者の間でも意見の相違があります)。
当時、加賀の本願寺を中心とした一向一揆が長年にわたって勢力を維持し続けていたため、朝倉氏はその対応に追われていました。当然、光秀も主君朝倉義景に従い参戦し、戦功を挙げました。
鉄砲の腕前を披露!
これも「明智軍記」からのエピソードです。
義景の要請で、光秀は御前で鉄砲の腕前を披露することになります。その時の彼のパフォーマンスはまさに驚愕に値するものでした。
一尺(約30.3センチ)四方の的に対し、25間(約45.5メートル)の距離から命中させたのです。中心の黒い部分に68発、そこを外れた32発も的自体には当たっていました。つまり、100発100中というわけです。これは相当な腕前ですね。
それを見た義景は驚き感心し、光秀に鉄砲隊として100人の部下を与えたのです。
鉄砲隊で名を挙げる
織田信長に仕官した後、光秀の配下には明智鉄砲隊なる部隊がいたようです。ただ、このことに関しては、はっきりとした歴史資料を挙げることができません。
「明智軍記」を全面的に信用するならば、朝倉義景に鉄砲隊の部下を与えられるほどだったのですから、その後のキャリアにおいて光秀が独自の鉄砲隊を組織することは十分に考えられます。武将として有能だった彼のこと、上手く部隊を鍛え上げたのではないでしょうか。そして戦場で活躍したであろうということは、想像に難くありません。
それにしても不思議なのは、光秀はどこで鉄砲の扱い方を学んだかということです。朝倉義景に仕官する以前の話ならば、青年時代にどこか鉄砲にゆかりのある土地を訪れていたのでしょうか。想像がふくらみます。
まとめ
戦国時代のヒーロー織田信長を謀反で自刃に追い込んだことから、一部の戦国時代ファンからは嫌われ疎まれている部分があると思いますが、「射撃の名手・明智光秀」なんて呼び名が広まったら、みんな一気に光秀のファンになってしまうと思うんですが、いかがでしょう?