豊臣秀吉の朝鮮出兵にメリットはあったのか

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天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2回に渡って朝鮮半島に出兵します。いわゆる文禄・慶長の役です。

二度の海外出兵は、諸大名の経済や軍事に大きな負担を与え、豊臣政権の終焉を早めたといわれます。

秀吉の朝鮮出兵はデメリットばかりで何もメリットはなかったのでしょうか?

壮大な秀吉のアジア征服計画

秀吉の朝鮮出兵は、島津氏に対する九州征伐、北条氏に対する小田原征伐に倣って、朝鮮征伐と呼ばれることもありますが、両者の間には大きな違いがあります。

九州征伐や小田原征伐は、そのまま九州や小田原が出兵の目的でしたが、朝鮮征伐は朝鮮半島の征服が最終目的ではなく、その宗主国である明国に攻め入るための前段階に過ぎなかったのです。

秀吉の朝鮮出兵の理由には諸説があり、どれが正しかったのかは秀吉のいない今となってはわかりませんが、最終目標が大明国の征服というのは、朝鮮出兵の理由を考察する上での大きな手がかりとなるでしょう。

秀吉には、朝鮮を経由して明国を征服した後の構想もありました。

後陽成天皇を北京に遷座して東アジア一帯を治め、そこで力を蓄えた後に天竺に侵攻するという希有壮大なものでした。

このため、朝鮮出兵自体が老いた秀吉の誇大妄想的な所業と見なす説があります。

朝鮮から中国、インドを征服するなどとても不可能な現実味のない話だというわけです。

しかし、それは事実でしょうか。

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欧州列強に匹敵する戦力を有した日本

この当時、ポルトガル、スペインは中南米やアフリカに広大な植民地を築き、イギリスやオランダも北米やアジアに進出する寸前でした。

世界の8割を手中に収めていたといわれるスペインの当時の人口は約1050万人、朝鮮出兵の直後に東インド会社を設立してアジアの植民地化に乗り出すイギリスの人口は625万人、オランダに至っては150万人しかいなかったと推測されています。

一方、同じ時期の日本の人口は2200万人に達していたと考えられています。

人口的にはヨーロッパの大国にひけをとらないどころかそれを上回るものだったのです。

さらに、応仁の乱以来、長い戦乱に明け暮れていた日本には、200万人の武士が存在していました。

これは定数100万人といわれる明軍の倍に当たります。

しかも、明軍がこれだけの兵を擁しているのは、長い国境線を周辺民族の侵入から守るためであり、朝鮮に日本軍が上陸したからといって、大軍を差し向けられる状態にはありませんでした。

事実、明軍は文禄の役では4万人、慶長の役でも8万人程度しか朝鮮半島に派遣できなかったのです。

一方、秀吉の軍勢は文禄の役では15万8700を数えました。

ここから対馬で指揮をとった宇喜多秀家軍の1万や、直接戦闘に加わらない補給や設営の人数を除いても、約半数の8万人程度の実戦部隊がいたであろうと推測されます。

しかも、当時の日本軍は鉄砲、長弓、長槍での集団戦闘を経験した世界屈指の精強さを誇っていました。

戦国末期に日本全体にあった鉄砲の数は50万丁と言われていますが、これは世界一の鉄砲保有数でした。

また、鉄砲戦術自体もヨーロッパとは異なった発展を遂げていました。

日本の鉄砲は、ヨーロッパから伝わった滑腔式の銃身から球形の弾丸を発射するマスケット銃を母体としていました。

マスケット銃は命中精度が悪いために、ヨーロッパでは長槍部隊が進撃する際に、随伴する小銃部隊が一斉射撃をして敵陣を乱し、長槍の突撃を補助するというような運用がなされていました。

小銃で狙撃して敵を倒すのではなく、弾幕を張って敵陣に隙を作るという戦術だったのです。

ところが、日本では鉄砲に弓矢と同じく狙撃性能を求めた結果、銃手の熟練によって狙撃銃として運用が可能になっていました。

火縄銃の有効射程は約200メートル、敵に致命傷を負わせる実効射程は100メートルといわれていますから、和弓や洋弓をしのぐ性能に達していました。

また、こうした熟練の鉄砲足軽が装備したのは中筒と呼ばれる中口径の火縄銃でしたが、弾丸の直径約16ミリ、重量6匁(22グラム)、初速480m/sという性能は、近距離では44マグナム拳銃弾をしのぎ、散弾銃のスラッグ弾並みの破壊力を有していたと考えられます。

これに対する朝鮮軍は、軍隊の叛乱を恐れたことから常備軍は少数に止め、その目的も北方の騎馬民族や沿海の倭寇を撃退するのが主でした。

そのため、騎馬民族に対しては要塞、倭寇に対しては軍船を用い、装備した大砲によって撃退するのを主目的にしていたのです。

文禄の役で緒戦から日本軍が快進撃を続けたのは、こういう戦術思想の違いが大きく影響していました。

陸上の野戦では驚異的な強さを発揮した日本軍が、海戦になると李舜臣の率いる朝鮮水軍に撃破されたのもそのためです。

 

スペインの世界征服に対する恐怖

いずれにしても、当時の日本の兵力はアジアでもトップクラスであり、条件さえ整えば明や天竺を制覇することもまんざら夢物語ではなかったのです。

また、このアジア大陸制覇は豊臣秀吉の思いつきではなく、世界情勢に明るかった織田信長の構想であり、秀吉はそれを実効に移しただけだとする説もあります。

老いた秀吉の考えと思うと無謀にみえる計画も、若き信長の発想と思えばまた様相が変わってくるのではないでしょうか。

信長がアジアに進出しようと考えたとすると、その背景にあるのはスペインの世界征服に対する危機感だったでしょう。

この当時、スペインはヨーロッパから、アメリカ、アフリカ、アジアにまでその版図を拡大し、世界の大部分を掌中に収めていました。

アジアでヨーロッパ列強の影響下になかったのは、日本と明とその属国だけという状態だったのです。

もしもスペインが明に進出してそれを支配するようなことがあれば、日本にとっては大きな脅威となるでしょう。

当時の日本人ならば、モンゴル帝国が朝鮮半島の高麗王国を先兵として九州地方に攻め入って来た元寇を想起したに違いありません。

中国大陸を支配する王朝が、朝鮮の兵力を動員して九州を攻撃してくるというのは絵空事ではなかったのです。

それならば、逆に朝鮮半島の兵を使って中国の王朝を攻撃することも可能ではないか、と信長が考えたとしても怪しむには足らないでしょう。

そして、信長の忠実な模倣者であった秀吉もまたそう考えた可能性がないとはいえません。事実、秀吉はスペインと結びついたキリスト教の布教を禁止するバテレン追放令を出しています。

この欧州列強によるアジア支配と、その脅威から日本を守るためとする朝鮮半島、中国大陸進出は、徳川幕府による300年の鎖国を経て、明治から昭和にかけてくり返されることになるわけですが、これは地政学的な事情というべきなのかもしれません。

By: hkflc

世界史に影響を与えた朝鮮出兵

秀吉の朝鮮出兵は結果的に失敗に終わりましたが、世界史的にみるとその影響は決して小さなものではありませんでした。

小さな島国と侮っていた日本に対して懲罰的な打撃を与えることができずに講和した明国では、朝鮮救援のための巨額の軍事費が財政を破綻させるとともに、万暦帝の政権が弱体化しているとみた顧憲成らの東林党が勢力を持ち、以後明国内部では政争が続くことになります。

こうした明国内の混乱に乗じた満州の後金国は、明国内を陰謀で分裂させるとともに大軍を持って北京を囲みます。

この結果、明は滅び中国は後金(清)が支配するところとなるのです。

かつてヨーロッパをも支配したモンゴル帝国の後裔である清が東アジアを支配した結果、スペインやイギリスが中国を植民地化して、日本の脅威となる恐れはなくなりました。

建国後、モンゴル、チベット、東トルキスタンと領土を拡大していく清は、むしろヨーロッパにとっての脅威となったでしょう。

欧州各国は、18世紀末まで、清国を眠れる獅子と畏怖することになるのです。

また、朝鮮半島における日本軍の戦いぶりはスペインにとっても大きな脅威でした。

文禄の役の4年前の1588年(天正16年)、スペインはアルマダの海戦で無敵艦隊と呼ばれた海軍主力がイギリス艦隊によって大打撃を受け、再建に力を注いでいる最中でした。

秀吉もこのことを知っていたのでしょうか、文禄の役と同じ1591年、長崎で貿易を営む原田喜右衛門を当時スペイン領であったフィリピンに派遣します。

その目的はフィリピンに日本国への朝貢を要求することであり、スペインがヨーロッパ情勢で手一杯であり、アジアまで手が回らないと見ての要請であったとしても不思議はありません。

また、原田喜右衛門にフィリピンの防備を調べさせるなど、フィリピン攻略も念頭においていた節があります。

スペインにとっては、清に続いて日本もまた、侵略の対象から侵略の脅威に変わったのです。

もし、秀吉の朝鮮出兵がなければ、スペインは中国、朝鮮、日本の支配を試みたかもしれません。

また、朝鮮出兵による豊臣政権内部の分裂や豊臣家の衰退がなければ、徳川家康が天下をとることはできなかったかもしれず、そうなれば鎖国によって300年間の平和をむさぼることもできなかったかもしれません。

秀吉の朝鮮出兵は間接的には日本にも海外にも大きな影響を与えたと言えるのではないでしょうか。

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