天草四朗は豊臣秀頼の子孫だった!?

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天草四朗というと、キリシタンであり島原の乱の首領です。

美青年で奇跡を起こすとされた彼は、実は豊臣秀頼の子、または孫であったという説がありますが、どうなのでしょうか。

天草四朗

天草四朗はどんな人だったのでしょうか。

彼は1621年から1638年にかけていきました。美青年で数々の奇跡を起こし、周辺では「救世主」と崇められていたようです。

そんな経緯から島原の乱がおきた際には農民に首領におされ、それを承諾。浪人もこれに参加し、多規模な反乱となります。しかし、乱は結局失敗し、四朗は17歳の若さで死亡しました。

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島原の乱とは

1637年から38年にかけて起きた反乱です。島原の乱がキリシタンによるものとして有名なのは、当時の備前島原半島と備後天草島ではキリスト信仰が強かったからですね。

幕府による禁教政策に対する不満が潜在していたところに当時の藩主の圧政が重なって、まずは島原の農民が蜂起して一揆を起こします。

これがきっかけとなり、キリスト教徒、農民、浪人も合流して大規模な反乱となったのです。ですので、島原の乱はキリスト教徒による反乱と言うより、大規模な一揆と言った方が良さそうです。

反乱軍に浪人もいたからか、彼らは原城に立てこもります。90日籠城を続けましたが、最後には鎮圧されました。

噂の理由

まず、四朗の父親は小西行長の遺臣である増田甚兵衛好次とされますが、詳細は分かりません。父親(両親)が不明な奇跡を起こす美青年…ということでしょうか。

次に豊臣秀頼ですが、彼は1615年の大阪夏の陣で自害したはずです。

ところが、自害した淀君と秀頼の遺体は見つかっていないのです。大阪城は焼失したのですから、2人の遺体もともに焼失してしまったと思われます。

遺体が見つからないとなると、どこかで生存しているのでは?という説が出るものですね。

秀頼はひそかに城の外へ脱出、薩摩へ逃亡してその地で子どもも授かり、島原氏の庇護のもと天寿を全うした…とされます。

秀頼の生没年は1593年から1615年ですから、秀頼が生きていたという説を取るなら、四朗は秀頼の子ども…とも言えるかもしれません。秀頼が28歳のころの子どもという計算になります。

生存説との関連

関連はやはり、秀頼が薩摩へ逃れたという噂に起因するでしょう。

秀頼は島津氏に庇護されていたということですが、これはどうでしょうか?

島津氏は古くから独立した家系ですので、豊臣とは関連がありません。島津氏にとっては、豊臣から徳川に権力が移動しただけのことですし、その徳川に睨まれるような冒険をするとはちょっと考えにくいですね。

秀頼を匿ったところで何の得もありませんし。ということで、秀頼を庇護する理由はないことになります。

なぜ秀頼が薩摩へ逃げたかについては、関ヶ原の合戦の敗者である宇喜多氏が薩摩の島津氏を頼っていますので、それになぞらえて秀頼も…と想像されたのでしょう。

噂の真相は?

デマということでしょう。まず、大阪の陣で家康は「豊臣の血を絶やす」ことにのみ集中したでしょうから、秀頼の脱出を見逃すとは思えません。

30万の兵で城を囲んでいたと言いますからね、人知れず脱出というのは不可能でしょう。つまり、秀頼生存説から無理だと思われます。

秀頼が生きている。天草四朗の父親が分からない。この2つが合わさってこそ生まれた噂でしょうから、秀頼が死んでいるという点のみで「天草四朗は豊臣秀頼の子どもである」という噂は否定されることになります。

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