高杉晋作が作り上げた奇兵隊とは

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幕末の長州藩にあって特異な活躍をした部隊といえば、まっさきに高杉晋作の奇兵隊の名が挙がるでしょう。

長州藩には奇兵隊以外にも、御楯隊、遊撃隊など多くの部隊があったにも関わらず、奇兵隊の名ばかりが広く知れ渡っています。

これは、青龍隊、敢死隊など多くが存在する会津藩の部隊の中で白虎隊のみが悲劇の部隊として記憶されているのに似たところがあります。

そこまで奇兵隊が勇名を馳せたのは何故なのかを探って行きましょう。

高杉晋作が奇兵隊を立ち上げるまでの情勢

文久3年(1863年)に起きた8月18日の政変で、薩摩と会津の連合軍によって京都から追放された長州藩は、対外的には孤立を深める一方、藩内では攘夷決行を叫ぶ過激派が台頭し、英・仏・蘭・米の列強四国と馬関戦争(下関戦争)を興すに至ります。

文久3年(1863年)の下関事件、元治元年(1864年)の四国艦隊下関砲撃事件の二つの攘夷運動は、しかし圧倒的な近代火力を誇る列強艦隊の前に惨敗を喫し、長州藩は無条件に近い講和を呑み込みます。

この時、講和使節として談判にあたった高杉晋作は、攘夷決行は旧式の火器や軍隊編成では成しがたく、新式の火器と西洋式軍隊が必須であると確信するに至ります。

こうして、高杉が考案したのが従来の身分制度に関わらず、訓練された国民による戦闘部隊ともいうべき奇兵隊だったのです。

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奇兵隊はどんな組織であったのか

下関戦争を遡ること5年、安政5年(1858)9月、高杉晋作の師である吉田松陰は、兵学者の立場から西洋の進歩的な歩兵制度を説いた「西洋歩兵論」を著します。

この中で松陰は、自分の専門である山鹿流などの旧式な兵法を廃止し、西洋式の歩兵制度を取り入れること、歩兵には農民なども採用することなどを主張しています。 これを熟知していた高杉は、松陰の考えに従って、身分にとらわれない歩兵部隊を結成します。

高杉は「西洋歩兵論」の中の「奇兵は譬へば傍らより小股を取るが如し」の一説や、引用された孫子の「兵は正を以て合ひ、奇を以て勝つ」などから、歩兵部隊の名を奇兵隊と命名します。

正規兵の反対語的な意味を持つ奇兵隊は、高杉の奇兵隊だけではなく、長州藩士からなる撰鋒隊以外の諸隊をさす言葉でもありました。 しかし各部隊の特徴が際立つにつれ、高杉が総督を務めた固有名詞としての奇兵隊のみを指すようになっていきます。

奇兵隊には身分に関わらず多くの人材が集められましたが、近代的な身分制度を破ったわけではなく、隊内には藩士を上位とする階級区分は残っていました。藩士は白絹地、足軽以下は晒布に所属を書くという袖印によって、その区分は一目でわかったのです。

しかし、これは貴族の子弟は士官学校を出て将校となり、庶民の子弟は下士官、兵士になるという英国の軍隊に通ずるものがあり、長州藩が必ずしも近代的でなかったということではないでしょう。

奇兵隊の隊士には藩から給与、制服、武器が与えられ、宿舎に起居するなど、近代的な軍隊の用件を満たしていました。 黒い洋式軍服を着用し、旧式なゲベール銃より飛距離も命中精度も上回るミニエー銃と小太刀を装備した奇兵隊は、西洋式にいえば軽歩兵にあたるもので、山野を駆けて敵の側背を突くといった機動戦に強みを発揮することになります。

奇兵隊以外の諸隊

幕末の長州藩には、奇兵隊以外にも藩士以外の身分からなる戦闘部隊が結成されていました。
その主なものを挙げてみます。

  • 御楯隊:高杉晋作が率いた尊王攘夷の結社で、英国公使館焼き討ちを行う。
  • 忠勇隊: 禁門の変の主力として戦闘するも壊滅。
  • 御楯隊: 禁門の変の残存部隊で編成。後に整武隊に吸収合併。
  • 整武隊: 御楯隊、鴻城隊などからなる。
  • 狙撃隊: 猟師で結成。
  • 第二奇兵隊: 大島郡一帯の民衆で編成、後に健武隊と合併。
  • 健武隊: 膺懲隊、第二奇兵隊などからなる。
  • 忠憤隊: 西山塾の塾生によって編成。
  • エレキ隊: 藩内の豪農によって編成。領内の自警団的組織。
  • パトロン隊: 火薬工場勤務の女子、一向宗徒の女子で編成。
  • 金剛隊: 阿武郡小畑村の僧侶、山伏で編成

幕末の長州にはこのように、編成も性質も異なる部隊が40以上も存在したのです。

これはまさしく、すべての人が世のために立ち上がるという吉田松陰の「草莽崛起」の考えを実現したものといえるでしょう。

奇兵隊、その活躍

下関戦争をきっかけとして結成された奇兵隊は、当初は外国艦隊の上陸に備える沿岸防備部隊でした。

しかし、戦闘のプロを自認する武士階級と身分制度を脱却した奇兵隊との折り合いは悪く、ついに文久3年(8163年)8月16日、奇兵隊が正規軍である撰鋒隊の宿舎に押し入って隊士を惨殺するという教法寺事件が起きます。

高杉はこの事件の責任を問われて奇兵隊総督の職を更迭され、以後、奇兵隊は河上弥市、滝弥太郎の指揮を経て、赤根武人総督、山縣狂介(有朋)軍監の体制で激動の時代を迎えます。

元治元年(1864年)、幕府による第一次長州征伐が行われると、奇兵隊も藩の正規兵として実戦を行います。 この第一次長州征伐に敗北によって、長州を脱出していた高杉は帰藩し、再び藩政の主導権を握ります。

これによって長州の藩論は倒幕で統一され、元治2年(1865年)の第二次長州征伐(四境戦争)では、奇兵隊他諸隊の奮戦もあって幕府軍を撤退させるに至ります。

慶応2年(1866年)に倒幕を目的とした薩長同盟が結成され、翌年の王政復古により、長州藩諸隊は新政府軍の一部となって、戊辰戦争を戦い抜くことになります。

奇兵隊、その終焉

戊辰戦争に奮戦し、ついに官軍の勝利を実現した奇兵隊の隊士は、明治維新を迎えて思い描いていたのとは違う冷酷な現実に直面します。

戊辰戦争忠の奇兵隊隊士の中には、徳川幕府を倒した後は、長州に幕府が置かれ、天下の中心になると考えていた者も少なからずいました。 長州藩主・毛利敬親でさえ倒幕後は自分が将軍になると思っていたという説もあるくらいですから、草莽の兵士の認識がそのようなものであったことは十分にうなずけます。

しかし、戊辰戦争後に彼らを待っていたのは、長州諸隊の解散という解雇命令でした。

5000人を数えた諸隊隊員の中で、新たに結成される常備軍への職を得たのは上級武士を中心とした2000人だけという事態に憤慨した一部の隊員は、奇兵隊を脱退、山口藩庁を包囲するという事件を起こします。いわゆる奇兵隊の反乱です。

しかし、すでに組織的な力を失った脱走兵の集団は、木戸孝允の指揮する部隊によってたちまち鎮圧され、首謀者の大楽源太郎以下130人余が処刑されて騒動は終焉します。

捕縛の手を逃れた奇兵隊士の一部は、各地の農民一揆や氏族の反乱にも加わり、また豊後水道に根拠を持つ海賊になった者さえいました。 幕末の動乱期に華やかな活躍をした奇兵隊の、あまりに悲劇的な最後でした。

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