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大谷吉継が侵されていたとされる病気とは?

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大谷吉継は永禄元年(1558)に近江(現在の滋賀県)で生まれたというのが通説ですが、その出自については不明な点が多く残されています。一説には秀吉の正室・高台院の侍女である東殿であるともいわれ、これを根拠に秀吉の隠し子とする説もあります。

天正の初め頃に秀吉の小姓となり、天正5年(1577)には福島正則、加藤清正らと秀吉御馬廻り衆となりました。それ以後は秀吉とともに合戦に参加、賤ヶ岳の戦いでは石田三成らと共に「三振の太刀」と賞賛される大手柄を立てました。

そんな大谷吉継はハンセン病を患っていたという話が残っています。大谷吉継が侵されていたとされるこの病はどのような病気なのでしょうか。

古くから差別の対象とされてきたハンセン病

ハンセン病は、「業病」「天刑病」とも呼ばれ、前世の罪の因果により発症する病と考えられていました。

その理由の一つは、病気による外見上の変化にあります。

ハンセン病の原因である癩(らい)菌は、非常に熱に弱いことから初期症状は最も温度の低い皮膚に現れやすく、白または赤・赤褐色の斑紋が出ます。そのまま放置すると腫れ物のようなものが出始め、さらに進行すると顔や手足などの末梢神経が冒され、転倒しやすくなり、それによりできた傷が化膿、強烈な悪臭を放ち始めます。

現在は治療法も確立し、「最も感染力の弱い感染症」とされているハンセン病ですが、それ以前は原因不明の感染症とされ人々に恐れられてきました。

その様子はジブリの『もののけ姫』にも見ることができます。タタラ場の奥に建つ小屋の中で石火矢を作っていた全身を布に巻かれていた人たちがそうです。その集団の長と思われる人物の言葉がハンセン病を患った人々が置かれた厳しい状況を描き出しています。

「その人はわしらを人として扱ってくださった、たった一人の人だ。わしらの病を恐れず、わしの腐った肉を洗い布を巻いてくれた。生きることはまことに苦しく辛い。世を呪い、人を呪い。それでも生きたい」

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仏教とハンセン病

ハンセン病の歴史は古く、奈良時代に成立した『日本書紀』にはすでに「白癩(びゃくらい)」という言葉が見えます。

また、法華経にの中に、「法華経を受持する者を軽んじて笑ったり、謗ったならばその人は現世に白癩の病を得るだろう」という趣旨の記述があることから、仏教を信仰する人々の救済の対象とされてきました。

大仏造立で知られる聖武天皇の皇后である光明皇后は、ある日、自ら建立した法華滅罪之寺の浴室で1000人の民の汚れを自ら拭うという願を立てられます。そしてついに1000人目というところでやってきたのは、皮膚から膿を出す病人でした。そして皇后にその膿を口で吸い出すよう要望します。そこで皇后が言われた通り口で膿を吸いだされると、病人は阿閦如来と化したという伝説があります。

また、鎌倉時代の律宗の僧・忍性(良観上人)が、亡母の13回忌に当たり癩宿17カ所から1000人を集めて食事を施し、慈善救済活動を行ったという記録もあります。彼らを救うことが文殊菩薩を供養することになるというのが師・叡尊の教えであったらしく、忍性は奈良に北山十八間戸を創設、患者たちの生活を成り立たせるため、歩けなくなった重症のハンセン病患者を背負って毎日早朝に町へ出、物乞いをさせて夕方再び背負って戻ったという逸話は有名です。

白い頭巾姿で描かれる吉継

吉継が患っていた病がはっきりとハンセン病と記された記録や、崩れた顔を白い布で覆っていたという描写を含む逸話は江戸中期頃までは存在していません。また、病の発症時期に関してもはっきりと記された記述はありません。しかし、目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄3年(1594)10月1日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べています。また、関ヶ原の戦いの頃には足腰が弱り、輿に乗って軍を指揮したという記録もあります。

こうしたことから、吉継はハンセン病であったのでは、と考えられ白い頭巾姿で描かれることがほとんどです。敦賀城主だった吉継にちなんだ敦賀市公認キャラクター「よっしー」も白い頭巾姿です。

2010年夏に発売された『戦国BASARA3』の大谷吉継は、重い病に侵された不幸から他人を呪うような言動を発し、全身を包帯で覆った姿で描かれました。これに対して日本ハンセン病学会は「偏見や差別を招く」として改善を要望しています。

吉継を救った石田三成の行動

天正15年(1587)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。しかし、この時吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけだったといいます。そんな時、吉継の顔から膿が垂れて茶に入ってしまいます。誰もが呆然となる中、三成はその膿ごと茶を飲み干し、「おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしい」と言ったそうです。

もともと、「刎頚の友」と呼ばれるほど仲が良かった吉継と三成でしたが、これにより二人の友情はより強まったのでしょう。吉継は関ヶ原の戦いにおいて、東軍有利を悟りつつも三成とともに戦い、奮戦の上、討ち死にしました。

秀吉をして「100万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめ、名将として知られた吉継でしたが、病の差別と戦っていたのかもしれません。しかし、病に関係なく接してくれた三成の存在は吉継にとって救いだったのだと思います。

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