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その兜はニッカウヰスキーのエンブレムにも-武勇の士だった山中鹿介

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山陰・出雲の武将、山中鹿介幸盛。彼が主家尼子の再興に生涯を賭けたことは、2014年の大河ドラマ『黒田官兵衛』にも登場したためご存じの方も多いかと思います。

この山中鹿介、尼子十勇士の筆頭とされ武芸に優れた人物としても名高かった武将です。一騎討ちに強く、生涯に討ち取った敵の首級はなんと66をゆうに超えたとか。

勇猛果敢で一途なその生涯は『太閤記』など書物を通じて江戸時代に広まり、以後、日本人の心を広く捉えました。鹿介がかぶっていた兜は日本が誇る国産ウイスキーメーカー、ニッカウヰスキーのエンブレムにも採用されたと言います。

なんとも時を超えたロマンを感じるお話ですよね。一体どんな兜だったのでしょう。またどんな由来があるものなのでしょうか。

ニッカのエンブレム、兜の意味するところは”武芸”。和の魂を表現

まず、最初にニッカのエンブレムについてその意味するところをひもといてみます。

2014年秋~2015年春に放送された朝の連続テレビ小説『マッサン』がヒットしたことによって、ニッカの創始者・竹鶴政孝氏の生涯も一般に知られましたよね。ドラマの『マッサン』で描かれたように、実在した竹鶴氏も青年時代にウイスキー作り習得のためスコットランド留学をした訳ですが、そこであるものを目にします。

王室に献上するウイスキーにつけられていたエンブレムです。英国王室の象徴であるユニコーンとライオン。それらがデザインに組み込まれた献上ウイスキーのエンブレムをモデルに、ニッカウヰスキーのエンブレムは作られました。

ニッカのエンブレムにはユニコーンとライオンに代わり、日本人に馴染みが深い、狛犬二頭が向きあって配されています。

そして、中央に元禄模様(市松模様)に縁取られたNIKKAの文字と、その上には大きな鹿角飾りが印象的な兜があしらわれています。その鹿角の兜こそ、山中鹿介の兜を模したと言われているものです。ニッカのホームページによれば、NIKKAの周りの元禄模様は日本の文化を、鹿介の兜は武芸を表しているそう。

このエンブレムは、洋のデザインに和の魂を込めるという、マッサンのウイスキー作りへの思いと志が表現されているようです。

マッサンこと竹鶴政孝氏は山中鹿介が活躍した山陰地方に近い広島出身の方ですし、彼にとって鹿介の兜は、日本人の誇りと親近感を感じられるアイテムだったかもしれません。

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三日月の前立に鹿角の脇立 山中家・家宝の兜が鹿介という名前の由来?

ところで、実際に鹿介がかぶっていたのはどんな兜だったのでしょうか?

実は山中鹿介という名前自体が、鹿角の兜を由来とするとされています。山中家の家督を継ぐ際に家宝の鹿角の兜も譲り受け、それを機に通称(呼び名・通り名)を幼名の甚次郎から鹿介に変えたと言われているのです。

また、それを裏付けるかのように、鹿介について書かれた幾多の書物の中にも鹿角の脇立または前立がついた兜をかぶっていたとの描写が見られます。尼子氏に縁の深い月山富田城跡に建てられている山中鹿介の銅像も、三日月の前立に鹿角の脇立が付いた兜をかぶり、三笠山に向かって祈る姿を表したものです。

鹿介と言えば”三日月と鹿”がトレードマークのようになっているんですね。

兜の全体的な姿については「半月の前立のある冑」「銀粉で装飾され五節に分かれた牡鹿の角を備えた冑」「長さ六尺の鹿の双角を前立てに挿めた冑」など、様々な記載が見られ、その描写は一定ではありません。

とは言え、武将は一生の間に兜を1つしか持たないものだという訳ではないですし、鹿介も複数の兜を所持していた可能性は高いでしょう。

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今に残る伝・山中鹿介の兜は、山口県の吉川史料館に展示

実は、鹿介がかぶっていたと伝えられている兜も現存しています。山口県岩国市にある吉川史料館収蔵の『鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)』です。この兜には鹿角の脇立も前立もついていませんが、三日月が前立です。

山中鹿介は尼子再興を賭けた最後の戦いの後毛利側に捕らえられ、護送の途中で毛利家の陰謀により殺害されています。

ですから、毛利氏の親族である吉川氏の史料館にあるというのは信憑性が高いですよね。記録では、自身も毛利三兄弟の中では1番の武闘派だった吉川元春が勇将の山中鹿介を高く評価しており、また鹿介謀殺の計画を事前に知らなかったため、その死を非常に惜しんだと伝えられています。

そのため亡き鹿介の兜を吉川家の家宝とするよう命じたのだということです。「尼子家の忠臣なれば、この品永く秘蔵すべし」と言い置いたと伝わっています。

ナカガワ マスミ

投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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