山中鹿介の名言の真実 我に七難八苦を与えたまえとは祈っていない!?
出雲の戦国大名・尼子(あまご)氏に最後の最後まで仕え、忠誠心篤い武将と称えられる山中鹿介(しかのすけ)幸盛。
彼に関する逸話に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」という、三日月に祈ったとされる有名な名言があります。
しかし、実はこれなんと実際に鹿介が祈った言葉とは違うものだったらしいのです。
では、なぜ現在ではそのように伝わっているのでしょうか?事実を掘り下げて行きたいと思います。
山陰の麒麟児と呼ばれるも、主家・尼子氏は毛利に滅ぼされる
山中鹿介は天文9年(1540年)または天文14年(1545年)に出雲国(今の島根県)に生まれたとされています。山中家では次男にあたるため一時は同じ尼子家臣の亀井家に養子に出されましたが、兄の甚太郎幸高が病弱で武将に向かなかったために山中家に呼び戻され、実家の家督を継ぎました。
鹿介は、兄と違って幼い頃から眼光鋭く手足も太くたくましく、13歳の時には敵を討ち取って手柄を立てたと『太閤記』(注:小瀬甫庵が著した『甫庵太閤記』と呼ばれるもの)には書かれています。またその優れた資質から”山陰の麒麟児(きりんじ-将来大成する有望な若者の意)”の異名を取っていたとも言われます。
しかし、この時代に隣国・安芸の国人領主である毛利氏が、毛利元就を頭に急速に勃興。山中家の主筋である尼子氏は力をつけた毛利に次第に押され、永禄8年(1565年)にはとうとう滅ぼされてしまいました。
絶対に諦めない!尼子氏再興に賭ける山中鹿介の努力
主家の尼子氏が滅亡したことで浪人となってしまった山中鹿介。普通の人なら意気消沈するところですが、彼は違いました。
いや、結論から言ってしまえば、尼子氏の滅亡こそ鹿介を有名にし、後世の人々から長く尊敬される人物となった理由であると言っても過言ではありません。
山陰の麒麟児は尼子氏再興に生涯を賭け、何度その計画を毛利の力によって砕かれても全く諦めなかったのです。
山中鹿介の尼子再興運動は1569年-1571年の第一次、1573年-1576年の第二次、1578年の第三次と計3回にわたって行われています。残念ながらいずれも強大な毛利氏の武力に阻まれむなしく終わった訳ですが、鹿介自身が謀略によって殺害されるまで、その活動は止まるところを知りませんでした。
江戸時代に知られた詠者不詳の「憂き事のなほこの上に積れかし 限りある身の力ためさん」という和歌は山中鹿介の詠んだものという説がありますが、なるほど、この歌は鹿介の生き方によく似たところがあるようです。
「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」という祈りの言葉も、おそらくそういった山中鹿介の生き方から導き出されたものでしょう。この名言、実は山中鹿介の生涯を描いた『三日月の影』という作品から有名になりました。この物語は昭和8年~20年まで12年間、小学校5年生の国語の教科書に載ります。
鹿介本人の口から出たものでないところは残念ですが、これらの言葉は「度重なる苦難を経験することによって鍛えられ、今以上に強くなって強敵・毛利を倒す力をつけ、尼子の御家をなんとか再興したい」という鹿介の悲願をよく表しているのではないでしょうか。
甫庵の書いた『太閤記』に残る鹿介の祈りの言葉
なお、先にも引いた小瀬甫庵の『太閤記』によれば、山中鹿介は
「十六歳の春甲の立物に半月をしたりけるが、今日より三十日の内に、武勇之誉を取候やうにと、三日月に立願」
したという記載があります。
つまり祈ったのは「武勇の手柄を立てたい!」という願いだった訳で、15~16歳の武家に生まれた少年の気持ちとしては自然ですしどこか微笑ましくもあります。
しかし、それがいつしか「我に七難八苦を与えたまえ」と変わって伝わるほど、鹿介の一生は苦難の連続でした。
けれども、そうした苦難に負けることなくひたすら前向きに生きた姿が、今なお多くの人の尊敬を集めているのでしょう。