歌川国芳が約200年前に描いたスカイツリーに似た物の正体は!?
庶民文化が花開いた江戸時代後期に生まれた歌川国芳(1798~1861)。
「江戸に国芳あり」と言われた天才浮世絵師の彼の作品の中に、当時は(もちろん)存在しなかったはずのスカイツリーが描かれていると話題になりました。
その絵はなんという絵なのでしょうか。
そして、それは実際には何が描かれていたのでしょうか。
中央左側にスカイツリー!?
問題となっている絵が描かれたのは1831年、国芳が33歳の頃です。
この絵は『東都三ツ股の図』といい、隅田川と小名木川が交わるところにあった三ツ股(中州)周辺を描いたものです。
深川方面を眺望する形で描かれたこの絵の中央右手にかかるのが、現在でも存在する永代橋だと言われています。
手前の中州では2人の職人が、船底をいぶす様子が書かれています。
川の向こう、絵の中央左側には高くそびえる塔が描かれていることがわかりますね。
二本の塔のうち、左手のほうは当時江戸によく建っていたという火の見櫓だとされています。
火の見櫓とは火事を発見したり、その場所を見定めたりするために高く建てられた塔で、火事が頻繁に起こった江戸の町には欠かせないものです。
そして、その火の見櫓の横には倍ほどの高さのある謎の塔が描かれています。
この絵が2008年に着工され、2012年に開業したスカイツリーと位置も含めて酷似していると話題になりました。
東京新聞がこの記事を掲載
平成23年(2011年)2月22日の東京新聞の朝刊に『歌川国芳作 浮世絵に謎の塔』と題して掲載されたこの浮世絵。
この新聞記事には「もっと知りたい歌川国芳」という著書を持つ洋画家の悳俊彦氏の談として「(この絵を含む)東都名所シリーズ国芳が向島に住んでいた三十代ごろ、近くを散歩しながらスケッチした作品群。空想の産物ではなくホントに見えたものを書いているはず」と書かれています。
実際には何が描かれていたのか!?
国芳の空想の建造物でもない、当然のことながらスカイツリーでもないとなると、この謎の塔はいったい何が描かれたものだったのでしょうか?
それは「井戸掘りの櫓」ではないかと言われています。
埋立地であった深川では真水をとることは難しく、かなり深くまで掘らなければならないため、このように高くそびえる物になったのではないでしょうか。
江戸東京博物館の吾妻直美氏は、葛飾北斎の「東都浅草本願寺」に描かれた井戸掘りの櫓と組み方が似ているとしています。
他にも相撲の開始時期を知らせる「相撲櫓」だとされる説など諸説ありますが、今のところ井戸掘りの櫓というのが有力です。
ちなみにこの絵が描かれた当時は、江戸城の威厳を保つために、地上58m以上の江戸城よりも高い建造物を建てることは禁止されていたそうです。
横に描かれた火の見櫓が約10mだとされているので、この謎の塔はその2.5倍の25mほどでしょうか。
当時にしたらとても高い物で人々はびっくりしたでしょうね。