宇喜多秀家は関ヶ原の戦いの実は西軍サイドの首謀者だった!?
豊臣政権下の五大老の1人宇喜多秀家は関ヶ原の戦いでは西軍として最大の兵力をもってこの戦に臨んでいます。
石田三成側についた理由を彼の立場から見ていくことにしましょう。
豊臣家への恩義
宇喜多秀家が9歳の時に、織田家(羽柴秀吉)に従臣した父が亡くなります。
すると秀家は秀吉の仲介を受けて、織田信長に父の遺領相続を認められて、家督を継ぎました。
また、信長の命令によって、秀吉の毛利攻めの遠征軍に加わり、備中高松城を陥落させました。
備中高松城は宇喜多家に与えられ、宇喜多家家臣の花房正成が城主となりました。
その後、本能寺の変で信長が死去すると、秀吉は毛利家と和睦し、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部・美作・備前の57万4000石の大大名となりました。
そして元服すると、秀吉から「秀」の字を賜り、幼名・八郎から秀家に改名しました。
秀吉に寵愛された秀家は、前田利家の娘で秀吉の養子である豪姫との結婚が許されました。
豪姫はまた、秀吉に「豪姫が男だったら関白にしてやるのに」と言われるほど秀吉(とその正妻の北政所)に寵愛されていました。
これにより、秀家は外様ですが、秀吉の一門衆としての扱いを受けるようになりました。
西軍サイドになった理由
秀吉が亡くなると、五大老筆頭だった徳川家康は着々と実権を握るための工作をしていきます。
まず、秀吉が禁止した「大名間の婚礼」を無視して、大名同士の婚姻を行い、婚約した娘は全て家康の養女としました。
秀吉に可愛がられ、豊臣家に恩義を感じている秀家からすると、この家康の行動は許せないことだったのではないでしょうか。
また、1599年に起こった宇喜多家のお家騒動で、自分に逆らった家臣の戸川達安らを、家康の家臣の榊原康政がかばいます。
そして、結局家康の手によって騒動が終息されました。
こうしたことによって、秀家は家康に対する怒りがわきあがったのではないかと推測されます。
西軍決起の発案者は三成じゃないかも
関ヶ原の戦いといえば、石田三成が豊臣家を守るために兵をあげたと認識されている方が多いのではないでしょうか。
しかし、秀家が首謀者だったという説があります。
これは三成が大谷吉継に協力を求める前から、出陣式を行っていたという記録に由来しています。
この出陣式には、秀吉の正妻の北政所は側近である大谷吉継の母:東殿局を代理として出席させており、北政所も家康側ではなかったのではないかと言われています。
関ヶ原の戦いでの宇喜多軍
秀家率いる宇喜多軍は、西軍の副将として石田三成らと家康断罪の檄文を発して、西軍の主力となります。
関ヶ原本戦においては、西軍の中でも最大の1万7000人の軍勢を率いて主力として戦います。
開戦すると、宇喜多軍は東軍最強とも言われる福島正則軍6000人と激突します。
『関ヶ原軍記大成』に「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度退却した」書かれるほどの激戦を繰り広げたと記録されており、関ヶ原の戦いの中で最も激しく戦闘を行っていたといわれています。
しかし、西軍は石田・宇喜多・小西・大谷とその傘下が各々で戦っているだけで、横との連携がとれていませんでした。
西軍は士気の高さによって、東軍を気押しましたが、小早川秀秋の裏切りと、それに呼応した者たちの謀反により西軍は敗戦に向かいます。
この時に秀家は激怒し、「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と叫びましたが、家臣に止められています。
その後、小早川軍や多数の東軍の攻撃にあい、宇喜多軍は壊滅、秀家はやむなく落ち延びました。
敗戦後から流刑まで
宇喜多家は家康によって改易(身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収される罰)され、秀家は伊吹山中(岐阜県)に逃げ込みました。
そこで落ち武者狩りの指揮官として行動していた、矢野五右衛門に見つかりますが、秀家を哀れに思った五右衛門は、自宅で秀家を匿います。
その後は変装して薩摩国の島津義弘を頼って落ち延びます。
しかし、「島津氏が秀家を匿っている」という噂がたったため、義弘の息子である忠恒によって家康に身柄を引き渡されました。
忠恒や、縁戚(義兄)の前田利長の助命嘆願によって、秀家は死罪は免れ、八丈島に流刑となりました。
八丈島は江戸時代において罪人の流刑地となりましたが、秀家がこれの第一号と言われています。
八丈島では義実家の前田家の援助を受けながら50年もの歳月を過ごし、83歳でこの地で没しました。