高杉晋作が愛した愛人おうの
勤王の志士高杉晋作には妻である雅子の他に、おうのという愛人がいました。
おうのは幕末の高杉の逃避行にも同行し、高杉の死後は仏門に帰依して高杉の菩提を弔うなど、半生を高杉に捧げた女性でした。
そのおうのとはどんな人物だったのでしょう。
おうのと高杉晋作の出会い
天保14年(1843年)に生まれたおうのは、11歳で下関の妓楼堺屋に売られ、芸妓となるべく育てられます。 15歳で芸妓となり此の糸という源氏名をつけられたおうのは、文久3年(1863年)20歳の時に高杉晋作と出会います。
当時、高杉は24歳、攘夷派の志士としての過激な行動が、長州藩世子・毛利定広の不興を買っていたころでした。 高杉はおうのを身請けして九州での生活をともにするようになります。
おっとりとした性格だっといわれるおうのに高杉が惹かれた理由には、当時の高杉の苦しい立場も影響していたのかもしれません。 当時、高杉には長州藩士で山口町奉行を務める井上平右衛門の娘の雅子という正妻がいました。
雅子はおうのより2歳年下、16歳で高杉に嫁ぎ20歳で長男・梅之進を生んでいますから、高杉とおうのが下関で出会った時には、2歳の子を抱えて長州で寂しく暮らしていました。
それをよそに下関でおうのと暮らす高杉の元へ、雅子が梅之進を連れて現れ、おうのと雅子が鉢合わせをしたこともありました。
これには高杉も大いに弱ったようですが、結局、正妻の雅子とは7年余の結婚生活のうち1年ほどしか同居せず、おうのとの暮らしが晩年の高杉の生活の中心となっていったのです。
高杉晋作没後に尼僧となる
元治2年(1865)年、下関開港を推し進めたことで、藩内の攘夷派、開国派の双方から命を狙われるようになった高杉は、おうのとともに四国に逃れます。 おうのは高杉になくてはならない存在だったのです。
高杉と短くも幸福な日々を過ごしたおうのでしたが、すでに高杉の体は結核に蝕まれていました。
慶応3年(1867年)、おうのの看病の甲斐もなく高杉がみまかると、おうのは剃髪して仏門に入り梅処尼と称します。
自分の死期を悟っていた高杉は、おうのの将来を考え、自分が死んだらその墓を守って暮らせ、そうすれば伊藤博文や井上馨たちがお前を見捨てることはないだろう、と遺言していました。
そして、その言葉の通りに高杉の菩提を弔う梅処尼に、伊藤、井上、木戸孝允、山県有朋らが資金を出し、高杉の墓のある場所に山県有朋が所有していた無隣庵を移築した東行庵を建てて、梅処尼をそこの庵主とします。 東行は高杉の号でした。
このおうのの仏門入りには巷間ささやかれた噂話もあります。
それは高杉の死後、芸者に戻ろうとしたおうのを、伊藤博文等らが高杉の愛人にふさわしくないと剃髪させて東行庵に閉じ込めたというものです。 これは根も葉もない作り話であるらしく、なにより梅処尼が高杉の菩提を弔いながら東行庵を守っていた事実が、これをたんなる噂としています。
谷家を興して高杉の菩提を弔う
高杉が亡くなる直前、長州藩主毛利敬親は高杉に谷の姓を与え、高杉家とは別に百石高の谷家を興させました。 これは高杉が四国への逃避行などで高杉家を嫡廃され、部屋住みあつかいの身分になっていたのを救済する処置でした。
梅処尼となったおうのは、高杉から谷の姓をもらい、本名を谷のぶと改めます。 高杉との間に子供のなかった梅処尼は谷家の存続にも心を砕き、高杉と雅子の間に生まれた梅之進が谷家の当主として自立できるよう援助を続けます。
梅之進はその後明治20年(1887年)に姓を高杉と改め、高杉東一として高杉晋作系の高杉家の存続を図ります。 梅処尼にとって高杉東一は実の息子のような存在だったに違いありません。
こうして半生を高杉の菩提を弔って生きた梅処尼は、明治42年(1909)8月7日に死去します。 梅処尼の墓は、高杉の墓を見上げる形で東行庵の一隅に現存します。