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徳川家康を震え上がらせた 真田幸村と父・昌幸の上田合戦に迫る!

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天正13年(1585)、家康は7000とも8000ともいわれる大軍を上田城に送りこみました。

世にいう第一次上田合戦です。

この戦で家康は真田昌幸・幸村父子の恐ろしさを目にすることになるのですが、どのような戦だったのでしょうか。

開戦の経緯

開戦のきっかけとなったのは徳川と北条の同盟でした。

天正10年(1582)に織田信長の甲州征伐により武田勝頼が戦死すると、武田旧領をめぐり北は上杉、東は北条、南は徳川の3氏が対立しました。

真田は当初北条に属しましたが、旧武田家家臣らが徳川に続々と帰属したため、徳川に出仕することになり、今度は北条と小競り合いを行うこととなりました。

しかし、信長亡きあとの主導権争いで秀吉がその勢力を拡大すると、家康は背後の憂いをなくすため北条と和を結び、所領分割を約束してしまいます。

その分割で北条領と約束されたのが、真田治める沼田のある上州でした。

家康は真田に対し、北条に沼田を引き渡すように迫りました。

しかし、あまりに一方的な要求に真田はこれを拒否。その上、敵である上杉景勝に人質として昌幸の次男・幸村を人質として送り同盟する動きを見せたため、家康はこれを叛逆として上田城を攻めさせたのです。

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どんな戦だった?

家康は鳥居元忠や大久保忠世らを将とする7000余騎を上田城に向かわせました。その中には武田の家臣として共に戦った仲間もいました。

対する真田勢は2000。圧倒的な兵力さでしたが、真田勢を率いる昌幸は信玄譲りの知謀を活かした戦を繰り広げたのです。

昌幸はまず長男・信之の軍約300を砥石城に入れ、周囲の砦にも兵を入れて守備を固めました。砦の兵は背後から徳川勢を攻めることのできる布陣です。

さらに上杉に援軍を要請。これに対し上杉は幸村と援軍2000を上田に向かわせ、援軍は地蔵峠に布陣しました。

昌幸は帰ってきた幸村に200の赤備えを与えます。そして少しずつ兵を引きながら大手門まで敵を引きつけ、鉄砲隊による一斉射撃を行ったのです。

それでも攻めよせる敵は大木や大石の下敷きとなり、退却した敵は真田の伏兵に襲われ、増水した川に追い詰められ溺死した者も多かったといいます。

徳川方の記録『三河物語』にはこの時のことが次のように記されています。

徳川の将兵は悉く腰が抜け果てて…震えて縮み上がり返事もしない。これではまるで下戸に酒を強いた如しである

下戸とは体質的に酒を飲めない人のことで、どうすることもできず「もうお手上げ」という諸将の様子が伝わってきます。

家康もこのまま兵を引くつもりはなかったようですが、別件の重大事のため兵を引かざるをえなくなり、第一次真田合戦は徳川の惨敗のまま幕を下ろすこととなったのです。

上田合戦がその後に与えた影響は?

甲斐の小大名が秀吉さえも苦しめた徳川相手に事実上勝利をおさめたことは、真田の武勇を広く知らしめることとなったといえるでしょう。

そしてこの時のことは家康の脳裏に深く刻まれたのです。

大坂冬の陣で真田が大坂に入城したという知らせを受けると、家康はまず最初に「親か?子か?」と尋ねたという話があります。この時というのはすでに親、つまり昌幸はすでに病死しており、そのことは家康にも伝わっていました。

それにも関わらず、家康は最初にそれを確認したのです。そしてそれが子・幸村であると聞くと安堵したとも言われていて、上田合戦がどれほど家康を苦しめ恐れさせたかがわかるエピソードではないでしょうか。

さらに一度は家康を安堵させた子・幸村は大坂冬の陣で上田合戦を再現するかのごとき活躍を見せます。

幸村は大坂城の南東に真田丸と呼ばれる出丸を築き、上田合戦さながらに敵を挑発しておびき出し、引きつけたところで待ち構えた鉄砲隊によって銃撃を行ったのです。

この戦法は見事的中し、攻め込んだ前田常利隊はみるみる犠牲者を増やしました。

真田丸での戦闘の犠牲者は、冬の陣全体の犠牲者の5分の4を占めるほどだったといいます。

幸村は夏の陣でも家康の本陣に斬りこみ、家康も命からがら逃亡することとなったのです。

天下人家康をこれほどまでに恐れさせ、その地位を脅かさんとしたのも真田家くらいだったのではないでしょうか。

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