織田信長の子孫は江戸時代に何をしていたのか?
明智光秀による本能寺の変で天下統一を目前にして倒れた織田信長。
彼の子孫はその後どうなったのでしょうか。
高家織田氏として
家康はかつての名門の子孫を臣下とすることで、朝廷政策を優位に進めたいという思惑により、室町将軍家である足利氏や有名な戦国大名の子孫らを「高家」に任命しています。
「高家」として一番有名なのは『忠臣蔵』でも知られている「吉良家」かと思います。高家は老中の下に置かれ、朝廷や勅使の接待にあたりました。
今川家、上杉家、大友家、武田家らとともに織田信長の子孫にあたる織田家もこの高家に任命されています。
江戸時代においても「織田」はビッグネームのひとつだったんですね。
江戸時代を生きた信長の子孫
織田秀信(1580-1605)
信忠の嫡男で信長の嫡孫。
清州会議で秀吉の推薦によりわずか3歳で家督を相続しました人物です。
関ケ原の戦いでは西軍に従ったため、負け武将となりましたが、福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したことで、高野山に送られて修行を積むことになります。
しかし、高野山といえば祖父・信長が高野山攻めを行った地。当初は入山を断られ、入山後も迫害を受けたそうです。
江戸時代に入った1605年には高野山を下りていますが、下山の理由は祖父の高野山攻めのとばっちりを受けたとも、病気療養だったともいわれています。
死因は自害だったという説があるそうです。享年26。
秀信には高野山下山後に子どもをもうけたとする説があり、その一族は現在も続いていますが、あくまで伝承であるというのが通説のようです。
水野成之(1630-1664)
信長の長女・徳姫の長女・登久姫の子。信長の曾孫。
代表的な「旗本奴」の一人で、十郎左衛門の名でも知られている人物です。「旗本奴」とは「江戸に存在した、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団」のことです。今でいうところのヤンキーや暴力団をイメージしてもらえればいいと思います。
江戸には6つの「旗本奴」があり、成之は「大小神祇組」を組織しました。
旗本奴は同時期に活動していた「町奴」との抗争が絶えなかったそうで、その様子は歌舞伎にも描かれています。
旗本という身分ゆえに彼らに手出しすることができる人がおらず、1657年には町奴の大物を殺害する事件まで起こしてしまいます。
成之はこの件でお咎め無しになりますが、その後1664年に評定所に呼び出された際、月代を剃らず着流しの姿で出頭し、これがあまりに不敬ということで即日切腹となりました。
切腹の時も、膝で刀の切れ味を確かめてから腹を切ったというカブキっぷりだったとか。享年35。
織田貞置(1617-1705)
信長の9男・信貞の次男。信長の孫。
信長の実弟・有楽斎に始まる茶道の流派・有楽流を継承する一方、信長を大変尊敬し、よく知られている「織田信長像」(名古屋市総見寺蔵)を描かせた人物でもあります。
また、信長をはじめ織田一門の事跡の収集に熱心に取り組みました。
本能寺の変が起こった信長の命日・6月2日に貞置も死去していることは、偶然だとは思いますが不思議な一致です。
織田瑟瑟(1779-1832)
信長の9男・信貞を遠祖とする女流絵師。
京都の女流画家・三熊露香に入門し、多くの桜の絵を描いたことから彼女の作品は「織田桜」と称されました。
あまりに見事な桜の絵だったので、飛んでいた鳥が間違えて止まったという逸話があります。
坂本龍馬暗殺の裏に信長の子孫の影?
信長の子孫にあたる織田和泉という人物。彼が坂本龍馬暗殺で暗躍したという説があるそうです。
嘘か真か怪しいものですが、少々おもしろかったのでご紹介します。
坂本龍馬暗殺の実行犯として現在最も有力視されている京都見廻組。その見廻組がいっきに100名の増員を行った時期がありました。
その時に勘定奉行という幕府の重役についていたのが織田泉之で、彼が坂本龍馬暗殺に暗躍したというのです。
こうした一方で坂本龍馬には明智光秀の子孫という説があり、坂本龍馬暗殺は本能寺の変の復讐だった!というのです。
トンデモ説としてはおもしろいですが、龍馬が光秀の子孫だったというのも信ぴょう性の低い説ですし、しかも龍馬暗殺の理由が怨恨というのも単純すぎるのではないかと思います。
しかし、暗殺される理由すらはっきりとはしていない龍馬なので、怨恨という単純な理由のほうが逆に納得できるともいえますが。
信長の子孫であること
以前あるテレビ番組で信長の子孫としても知られている元フィギュアスケート選手・織田信成氏が、「確かに小学生のころは(織田信長の子孫であるということで)友達からいわれることもありましたね」と語っていました。
良くも悪くも多くの人が知っていた「織田信長」の名前。
それゆえに苦しんだ秀信、それを誇りにした貞置、知ってか知らずか信長と同じく「うつけ」として生きた成之。。。それぞれが彼らなりにこの名前を受け止めて生きてきたことがわかります。
歴史上の人物だと思って私たちは彼らを好き勝手に評価しますが、そのたびに今を生きる子孫の人たちは喜んだり、時には傷ついたりしているのかもしれませんね。
しかしながら、由緒ある血統というのはおそらく農民出身の私としては羨ましい気もします。