黒田清隆はなぜ風刺画でタコと描かれたのか!?
第二代内閣総理大臣、黒田清隆。
彼は大隈重信と共に描かれた風刺画に「タコ」と表されました。
なぜ大隈重信とともに風刺画を描かれたのか、そしてなぜ「タコ」にされてしまったのでしょうか。
「タコ」と「クマ」が争う風刺画
これは「開拓使官有物払下げ事件」を発端にする「明治14年の政変」における、黒田清隆と大隈重信の対立を表したものです。
黒田清隆はロシアの脅威に対抗するためには、北海道の開発に力を入れるべきだとし、開拓使の事実上のトップに立ちます。
しかし、明治14年になると、開拓使の廃止の方針が固まると、黒田清隆は開拓使の官営事業継続のために、部下の官吏を退職させて、船舶・農園・炭鉱・ビール工場・砂糖工場などの企業をし、それを赤字であることを理由に格安で払い下げようとしました。
この時、黒田は私欲で動かない官吏出身者を優遇しようとしたが、それに大隈重信が反対します。新聞報道は、この払い下げ計画は、黒田と同じ薩摩出身の政商・五代友厚と組んで、黒田が利益をむさぼろうとしているものだと非難します。
一方で大隈も三菱財閥と組んで利益を得ようとしているという噂も流れます。この世論の混乱は、大隈が情報を流したせいだとし、伊藤博文らが大隈を政府から追放します。結局は払下げ計画は中止となり、黒田も開拓使長官から退いて、内閣顧問という閑職に退くこととなりました。
この風刺画はそんな大隈と黒田の対決を描いたとされています。
ここには「クマ」が「力負けして今度は自分が土俵の外に踏み出したワイ」(政変に負けて下野した大隈を表す)と言っていると描かれているそうです。
なぜ「タコ」と「クマ」の争いなのか
左の「タコ」は黒田清隆を、右の「クマ」は大隈重信を描いているそうです。なぜ黒田清隆が「タコ」で大隈重信が「クマ」なのかというと、大隈重信はその名の「おおくま」から「クマ」にされたそうです。
黒田清隆は「くろだ」から「くろだこ」→「タコ」とこじつけが一つの理由です。
また当時、戊辰戦争で旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領し、函館戦争で降伏・投獄された榎本武揚の助命嘆願のために、黒田は剃髪し丸坊主姿になっていました。その姿形がタコの頭にそっくりだったから、タコと描かれたというのがもう一つの理由です。
他に動物に例えられた人物
上記の大隈と黒田の争いを表す風刺画は「団団珍聞(まるまるちんぶん)」に描かれたものです。
この団団珍聞には、その他にも大久保利通と後藤象二郎は「ゾウ」として描かれています。後藤象二郎はその名の「象二郎」が理由です。大久保利通は青年時代、島津久光から賜った「一蔵」という名前を通名として使っていたそうです。その「一蔵(いちぞう)」からゾウとして描かれたそうです。また、板垣「退」助、五「代」友厚も、名前の読みから連想して「鯛」として描かれていたそうです。