黒田清隆は大の酒乱で酔っぱらった末に大砲を打って人を殺した!?
1840年(天保11年)に薩摩国で生まれた黒田清隆。
生家は下級武士で裕福ではなかったが、武術に長け、剣術だけではなく、砲術においてもその才を発揮し免許皆伝にまでなっています。
そして、伊藤博文に次いで第二代内閣総理大臣に就任しました。そんな黒田清隆はお酒が好きで、数々の問題を起こしていたそうです。
酔って大砲を放ち、民間人を殺害した!?
1870年(明治3年)5月、黒田清隆は樺太専任の開拓次官となりました。
7月に樺太に向かい現地のロシア官吏との関係を調整した後、北海道を視察して周りました。
翌年の10月に開拓使長官だった東久世通禧が辞任したのを受けて、次官のまま開拓使の頂点に立ちました。
そんな開拓使時代、商船に乗船した際、酒に酔った黒田は船に海賊船よけとして設置してあった大砲を面白半分にぶっぱなし、誤って民間人を死なせてしまったそうで、その後、示談金を払って和解したそうです。
木戸孝允が怖かった黒田
後に内閣総理大臣に選ばれるほどの政治手腕を持った黒田でしたが、一度酒を飲むと手をつけられないほどの大トラとなり、暴れまわったそうです。
ある酒宴で酒を飲んで、例によって暴れていると武術家でも知られる木戸孝允がやってきて、黒田を毛布で簀巻きにし、家に送り届けたそうです。
そんなことがあったので、黒田は「木戸が来た」というと大人しくなるくらい、木戸を恐れたそうです。
奥さんを酔っぱらって殺害した!?
1878年(明治11年)3月、妻の清が24歳の若さで肺病を患い死亡しました。
これについては「酒に酔っぱらった黒田が、妻の迎えが遅いと憤慨し斬り殺した」と新聞に取り上げられてしまったそうです。この醜聞から黒田は辞表を提出したそうですが、大久保利通の説得によりこれを撤回しました。
さらに大久保は「黒田はそんなことをする人間ではない」と主張(実際に酒に酔って人を殺してしまった過去はあるんですがね…。)し、自分の腹心の部下である大警視の川路利良に調査をさせました。
川路は医師を伴って黒田の妻・清の墓を開けさせ、墓の中を覗き込んだだけで、「これは病死である」と結論付けました。
病死かどうかはともかく、見ただけで判断できるということは少なくとも切り殺されたような跡はなかったということなのでしょう、きっと。
明治時代の有名人で酒癖が悪かった人物は?
明治期に活躍した人物で酒好きだったという人でまず挙げられるのは秋山真之の兄・秋山好古ではないでしょうか。彼はいつでもどんな時でも、たとえ戦局にいようと酒を片手に持っていたと言われるほどの酒好きです。
しかし、黒田清隆とは異なり、どんなに飲んでも判断を誤ることはなかったとされてますので、大酒飲みであっても酒癖が悪いということにはならないでしょう。
酒癖の悪さで有名なのが、明治から昭和にかけて活躍した小説家・児童文学者の鈴木三重吉という人物です。彼は黒田と同じく酒に酔うと、手が付けられず灰皿が飛び交うような大喧嘩を繰り広げたりしていたそうです。
その酒癖の悪さは小島政二郎の『眼中の人』の中にも書かれています。
また、親交のあった北原白秋とも酒の席でのいさかいが元で絶縁状態になったそうです。
お酒は飲んでも飲まれるなですね。黒田についてはその酒癖の悪さからくる醜聞はいつまでも人々の記憶に残り、黒田の名声を傷つけたそうです。