聖武天皇が遷都を繰り返した理由とは
聖武天皇といえば、東大寺の大仏を建立したことが有名ですが、わずか5年の間に4度の遷都を繰り返したことでも知られています。
天皇が遷都を行うと膨大な費用や労力がかかるのですが、民衆の不満を抑えてなぜ天皇は遷都を繰り返したのでしょうか?
遷都を繰り返した理由とは?
聖武天皇の時代の元号は「天平」といいます。
しかし、その名が現すように、彼の「天下」は「平らか」ではありませんでした。飢饉や政争、天災に反乱…。
生まれつき気性が繊細であったとされる聖武天皇は、世の中が安定しないのは自分の人徳が無いせいだと思い悩みます。
そんな時、九州に左遷されていた藤原広嗣が、「災厄の元凶は吉備真備・玄昉に起因する」という旨の上奏文を送ります。
つまり、これは時の権力者である、右大臣・橘諸兄政権を批判したものでした。そして九州の隼人約1万人を率いて挙兵しました。これを受けて朝廷は追討の命をだしました。しかし、聖武天皇はまだ鎮圧の報告を聞かないうちに突然関東に行幸すると言い出したそうです。
朕、 意(おも)う所有るに縁りて、今月の末、暫く関東に往かん。その時に非ずと雖(いへ)ども、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これを知るとも驚き怪しむべからず
(僕ちょっと思う所あって、今月の末から関東の方に行こうと思うんだよね、でも大げさにとらえないでね、将軍もこれを知っても驚かないでね)
と言い残し、関東に向かいました。
その理由は反乱軍が攻めてくるのが怖くなって逃げたと見えますが、そのルートは聖武天皇の曽祖父である天武天皇が壬申の乱でたどったコースと重なります。
このことから天皇に従う者たちに、壬申の乱を追体験させることで「今はただ事ではない、国家の緊急事態だ」ということを強調するためだという説があるとされています。
実際には壬申の乱はその遷都よりも約70年前のことなので、追体験といっても壬申の乱事態を経験した人は(いたとしても)ごくわずかだったと思いますが…
移り住んだ経緯と理由
まず、天皇は奈良の平城京を発ち、伊勢・美濃方面(現在の三重・岐阜あたり)に向かい、岐阜県の不和の関を通って近江(現在の滋賀)に入ります。
そして、平城京の北方、山背国(現在の京都)へ遷都を決定します(恭仁京)。その理由として、右大臣・橘諸兄の本拠地であったことが言われています。
その後、まだ恭仁京が完成していないにも関わらず、742年には近江国に離宮を建設。これを紫香楽宮(しがらきのみや)として行幸します。
天皇はこの紫香楽宮で盧舎那仏を造設することを発願したとされています。
しかし、さらに744年には大阪の難波宮に遷都。ですが、ここに来てからも天皇は紫香楽宮に行幸を繰り返していたとされています。その間難波宮には元正上皇と橘諸兄が残されていたとされています。
そのため、この難波宮遷都は、対立をしていた上皇たちを遠ざけるためだった説、または紫香楽宮の設備が整うまでの一時的な措置であったという説があります。
しかし、遷都を繰り返した聖武天皇も745年、ついに平城京への還都を決定しました。無理な遷都を繰り返した結果、財政は逼迫し、民衆も平城京を望む声が多かったみたいですね。