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ダグラス・マッカーサーが解任された理由は原爆の使用要請が原因?
連合国軍総司令官として日本の占領を任されたことで知られるダグラス・マッカーサー。
彼は1950年に勃発した朝鮮戦争においてアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与されています。
しかし、その任を解かれています。その理由とはいったい何だったのでしょうか。
朝鮮戦争前のダグラス・マッカーサー
日本統治を任されていたマッカーサーは大統領になることを目指していました。
しかし、現役軍人では大統領選に立候補することもできないので、マッカーサーは日本統治の安定ぶりをアピールし、統治そのものを終わらそうとしていました。
そして、退役軍人となり、共和党から大統領選に出馬することを表明しましたが、党の代表候補選の時点で大敗し、大統領になる道を断たれました。
その時はトルーマンが大統領に選ばれています。
ダグラス・マッカーサーと朝鮮戦争
1950年6月25日、ソ連の許可を受けた金日成が率いる北朝鮮軍が韓国に侵攻を開始、朝鮮戦争が勃発しました。
「朝鮮半島で戦争は起きない」と思い込んでいたマッカーサーはこの北朝鮮の南部侵攻にショックを受けました。
しかし、北朝鮮の南部侵攻を受けて米・国防総省はマッカーサーに全指揮権を与えたのにも関わらず、「韓国側がすぐに盛り返して騒ぎは鎮静化するだろう」と考え特に策を講じませんでした。
そのせいか、マッカーサーに権限が与えられた翌日には首都ソウルが北朝鮮に占領されてしまいました。
それを重く見たマッカーサーはようやく本腰を入れ、占領された仁川への上陸作戦を決定します。
これは成功率がとても低いと見られていましたが、マッカーサーは見事作戦を成功させ、ソウルを奪還しました。
大統領の命令を無視したマッカーサー
このソウル奪還後もマッカーサーは勝利を重ねました。そして開戦以前の北朝鮮と韓国の国境線であった38度線を突破、朝鮮半島を北上しました。
米大統領であるトルーマンはこれを受けて、「過度な北上は中国(中華人民共和国)を刺激するから辞めるように」という指示を出します。
しかし、マッカーサーは「中国は戦争に絡んでこない」とし、大統領の命令を無視して北上を続け、中国の国境まで攻め込みました。
それによって中国側は人民解放軍を率いて、北朝鮮側として参戦しました。
そして、中国軍は国連軍を南に押し戻し、1951年1月4日にはソウルを再攻略するなど、朝鮮戦争は泥沼化していきました。
原爆使用の要請と解任
この中朝軍の驚異的な巻き返しにパニックになったマッカーサーは、原爆の使用を含めた中国東北部への空爆を主張しました。
しかし、アメリカ政府は空爆は戦争の拡大を招き(ソ連参戦の可能性もある)、原爆に関しても現実的ではないとして否決されました。
これを受けてマッカーサーは「中国東北部に対する空爆の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」とトルーマンをこき下ろしました。
実はこれ以前にもマッカーサーは大統領であるトルーマンに対して不遜な態度をとり続けていました。
さらに北上を辞めろという命令無視や、この原爆使用という戦争拡大につながる恐れのある作戦を提示してきたマッカーサー。
トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」とし、ついにマッカーサーの解任を決定しました。
解任、そして退役へ
1951年4月11日深夜0時56分、マッカーサー解任前に辞任されることを恐れたトルーマンは異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表しました。
日本時間の午後3時にこの報が日本にも伝えられ、夫人と会食していたマッカーサー本人にも伝えられます。
そして、4月16日マッカーサーは業務をマシュー・リッジウェイに任せ、本国へ帰還するために東京国際空港に向かいます。
その沿道には見送りに来た日本人20万人が詰めかけました。
1951年4月19日、ワシントンD.Cの上下院合同会議において、マッカーサーは退役を発表しました。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」