野口英世の死因は本当に黄熱病!? 梅毒という噂は何処から?

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黄熱病研究で知られる野口英世。彼自身も黄熱病にかかって亡くなったと一般的には言われていますが、野口が亡くなったイギリス領ゴールドコースト・アクラでは、当時黄熱病は流行していませんでした。

また、黄熱病を発症したのはナイジェリアのラゴスという町でしたが、そこでも黄熱病は流行していなかったといわれています。

そのようなことから、野口の死亡原因は他殺説や自殺説、黄熱病ではなく梅毒で死んだなどの説があります。

いったい野口英世の本当の死因は何だったのでしょうか?

1927年 死没地となるアクラに到着

1927年、野口英世は黄熱病研究のためにイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)のアクラに渡りました。

それまでにも野口英世は数々の微生物学における数々の発見を成し遂げており、1918年に黄熱病の病原体として、ある細菌を見つけた時には「人類の救世主」とまでもてはやされました。

しかし、1920年代に入ると、野口の研究は疑問視されるようになりました。特にアメリカのロックフェラー医学研究所では野口の研究に疑念をもつ者が多く、まともに研究を行うことができませんでした。

そんな人々の疑念を払拭するべく、野口は黄熱病が流行した西アフリカの地に乗り込んだのです。

ですが、彼が到着したころには、西アフリカでの黄熱病の流行は鎮静化していました。アクラに到着して約2か月後、やっと近くの村で黄熱病らしき疾病が発生したという報を聞き、血液の採取へと向かったという記録が残っています。

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1928年 黄熱病を発症!?

年が明けてすぐ、野口自身が黄熱病の症状を発症したとされています。(しかし、この時は他の医者によると、アメーバ赤痢だという診断が下されており、黄熱病であったかどうかは不明。)

この時は一週間ほどで回復します。そして、研究を再開した野口は、その年の3月に今まで黄熱病の原因だと主張してきたイクテロイデス細菌とは異なる、黄熱病病原体(ウイルス)をほぼ特定できたとし、今までの自身の研究を否定、さらなる研究をするためにアクラを発つことを決断します。

しかし、アクラを発つ前の5月11日に発熱、体調が悪化し、翌々日にアクラのリッジ病院に入院し、黄熱病と診断されました。

彼はこの時、終生免疫が続くはずの黄熱病に二度かかったことを不思議に思ったそうです。(つまり、野口が発見したと言われるワクチンも黄熱病のものとは違うものであり、年明けにかかった病気も黄熱病ではなかったということです)その後、一進一退を繰り返しながらも、5月21日正午頃、51歳の若さで死亡したというのが通説とされています。

(※野口が研究していた黄熱病の主な症状は突然の発熱、嘔吐、頭痛、背部痛、虚脱、悪心があり、その後回復することもあるが、重症になるとさらに数時間から2日の間に再燃し、発熱、腎障害、黒色嘔吐、下血、黄疸などに苦しむとされています。)

死因の真相は!?

野口の死の直前の症状は先述の黄熱病の症状と同じものであったと言われています。

さらに野口の死亡後、助手であったヤング医師が、野口の血液をサルに接種するとそのサルも黄熱病を発症したと言われており、野口の肝臓が今でもロンドンの博物館に展示されているそうですが、それを見ると黄熱病に感染していたということがわかるそうです。

以上のことから、野口の死因は黄熱病だとされています。ちなみに彼の血液をサルに接種したヤング医師も野口が死んだ1週間後に黄熱病で亡くなっています。

野口が梅毒で死んだという説は、野口が黄熱病よりも前に梅毒のことを研究していたこと、黄熱病を研究していてワクチンを発見したと主張していたのにも関わらずその黄熱病で亡くなった、いわば不名誉の死であったことなどから出てきた説ではないでしょうか。

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Sakura

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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