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豊臣秀吉の子供時代とはどんなだった?

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天下一の出世頭としても知られる豊臣秀吉ですが、彼の子供時代は謎に包まれています。

秀吉は関白・太閤と出世するに従って、自分は天皇のご落胤だとか、日輪の子だとか言い出しますが、もちろんそんなはずはありません。

彼はどんな子供時代を過ごしたのでしょうか。

貧しい子供時代

秀吉は天文6年(1537)2月6日、尾張国愛智郡中村の百姓・弥右衛門とその妻・なかとの間の二番目の子として生まれました。

姉であるともはのちに秀次・秀勝・秀保を生んでいます。

弥右衛門は織田信長の父・信秀の鉄砲足軽をつとめていたとされ、農業のかたわら戦時に足軽として徴発されていたようです。秀吉自身も山で薪を刈り、それを売って生計をたてており、極貧の際には古い蓆以外には身を覆うものがなかったといわれています。

その父・弥右衛門は天文12年(1543)、戦場でうけた傷がもとで亡くなってしまいます。

母・なかは信秀の同朋衆・竹阿弥と再婚しましたが、秀吉はこの養父とうまくいかなかったようで、日常的な虐待を受けた挙句、秀吉8歳の時、尾張の光明寺に入れられてしまいました。一説には自ら侍になるべく遠江に行ったともいわれています。

10歳くらいの時、寺を追い出された秀吉はしばらく尾張の土豪の奴婢として雇われ、薪運びなどを行っていましたが、その主人に商人になることを勧められます。

そして、主人にいくらかお金をもらい町にでて商人になりました。

また、一説には実父・弥右衛門の遺産として永楽銭一貫文(およそ30万円)をもらい、清須の町に出てそのお金で木綿針を買い、それを売りながら東海道を東に下っていったともいわれています。

貧農であったといわれる弥右衛門が30万円もの遺産をもっていたかどうかは疑問ですが、秀吉が10代半ば頃何らかの商売を行っていたことは間違いないでしょう。

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矢作川で蜂須賀小六と出会えない?

秀吉は三河の矢作川の橋の上で寝ていたところを野伏の頭領・蜂須賀小六に起こされ、仕えることになったという話があります。

しかし、このころ矢作川には橋は架かっておらず、そもそも美濃・尾張国境付近で活動していた小六が三河にいること自体が不自然なので後の創作であると考えられています。

武家奉公での出世

天文20年(1551)秀吉15歳の時、今川義元の家臣で遠江の頭陀寺城主・松下加兵衛之綱に拾われ、草履取りから出世し納戸の出納を任されるようになりました。

この頃からすでに類まれ丸秀吉の才能が垣間見えていたわけですが、こうした出世を周りは妬みいじめにあい、見るに見かねた之綱により実家・中村に帰されてしまいました。

しかし、秀吉は之綱に大変な恩を感じていたようで、賤ヶ岳の戦いの後には丹波・河内・伊勢の内で2千石を、小田原攻めの後は遠江久野城・1万6千石を与えています。

中村に戻った秀吉は天文23年(1554)、織田家の小物頭・がんまく、一若の推薦により織田信長に仕えることになります。

秀吉は之綱のもとで納戸の出納を任されるまでに出世していましたが、信長のもとで再び草履取りからの再出発でした。

しかし、秀吉は草履を懐に入れ温めていたという有名なエピソードがあるように、信長に忠義を尽くし仕えていったのです。

信長はこの6年後の永禄3年(1560)、桶狭間の戦いにより信長は義元を見事討ち取り、天下取りへと歩を進めていくことになり、秀吉はその発想力と行動力から信長に重用されていくのです。

秀吉の運命を決めた選択

当時の信長は家督を継いで四年目の、しかも21歳の若造。

さらにいえば、尾張国内も動揺しており、どうせ仕えるなら「海道一の弓取り」といわれていた今川義元のほうが秀吉にとってはよかったのかもしれません。

しかし、秀吉は「尾張一の大うつけ」・信長に仕えることを決意します。

もし秀吉が義元を選んでいたら、彼の名前も存在さえも歴史に残ることはなかったでしょう。

しかし、偶然とも奇跡とも思えるこの選択を間違わないところが、天下人・秀吉の才能なのかもしれません。

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