伊達政宗は父を殺した!? その理由に迫る!

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戦国から江戸時代に活躍した初代仙台藩主・伊達政宗。幼い頃、病気により右目を失明したことから、後に「独眼竜」と呼ばれるようになりました。18歳で家督を継ぎ、奥羽を平定する力量を持つ猛将でもあり。秀吉と渡り合い、徳川の時代には家光に気に入られる様に努めた知将でもあります。あと少し生まれるのが早ければ、天下を争う武将の一人になっていたかもしれないと言われる程の器の人物だったようです。

そんな政宗がある事件で父を死なせてしまいます。その件について父殺しは政宗の計画であったとされる説もあるのです。

では、それはどんな事件で、どうして政宗が疑われるのか?

最初に政宗とはどんな人物なのか確認してみましょう。

生涯

1567年9月、伊達家の16代当主・伊達輝宗の嫡男として誕生。幼名は梵天丸。5歳の頃に天然痘に罹り右目を失います。「政宗」の名前は、伊達家中興の祖と言われる第9代目大膳大夫政宗にあやかってつけられました。1584年、父・輝宗が隠居し家督を相続して第17代当主となりました。この頃、信長や秀吉が天下統一に近づいていたいましたが、東北ではまだ戦乱が続いていました。政宗は15歳で初陣を飾り、当主になってからは東北の平定に乗り出します。

1589年、葦名氏を破り奥羽地方のほぼ半分を平定。その時に秀吉から恭順するように書状が届きます。最初は黙殺していた政宗ですが、秀吉の命令に従い小田原北条氏攻めに参陣します。秀吉の死後、関ヶ原の合戦では家康に味方し、政宗を藩祖とする仙台藩が誕生しました。

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父を殺した経緯

政宗が父・輝宗を殺すことになった事件は、その事件は奥羽平定の時のことでした。

東北の武将達は敵対したり和睦しながら微妙な力関係を保っていました。その中で政宗は家督を相続します。その隙を狙い、小手森城主・大内定綱と二本松城主・畠山義継は手を組み田村氏からの支配から逃げ伊達家に対抗しました。

それに激怒した政宗は、大内定綱の小手森城を攻め、見せしめとして城の者を皆殺しにする「撫で斬り」をおこない、畠山義継にも厳しい処分を下しました。5つの村だけは領地として許された畠山義継は、そのお礼という名目で輝宗を訪ね、見送りに出た輝宗を拉致し逃亡。それを聞いた政宗はお鷹狩りから急いで戻り、人質になっていた父・輝宗も含めた全員を鉄砲で殺したのです。

理由 父が邪魔だった!?

政宗が父を疎ましく思っていたので殺したという陰謀説があります。その根拠は、政宗が追いついた時には鉄砲隊が取り囲んでいた、となると政宗よりも先に鉄砲隊がたどり着いていることになります。鉄砲の準備をするには時間がかかるはずで、これは最初から用意周到に準備されていたのではないか?ということなども含めて政宗の陰謀説は消えないようです。

理由 やるしかなかった!?

拉致された父に追いついたのは、阿武隈河畔の高田ヶ原という場所で、対岸は畠山義継の本拠地。このまま逃がす訳にはいかないと苦渋している時に、人質になった父・ 輝宗が政宗に自分もろ共に義継を撃てと言ったと言われています。

母親には愛されなかった政宗ですが、父・輝宗は早くからその才能を見抜いてお家騒動にならない様に先手を打って政宗に家督を譲ったと言われています。そんな父を政宗は嫌っていたのでしょうか?他方で、母に毒を盛られたことを理由に弟を殺したり、攻め入った城内で皆殺しをするなど、猛将と言われる激しさもあるようです。

果たして、政宗の心中はどうだったのでしょうか?

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