真田幸村 蟄居中の九度山での生活は?

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関ヶ原の戦いで石田光成率いる西軍に味方した真田幸村と父・昌幸。

二人は幸村の兄・信之の決死の嘆願により助命され、九度山に蟄居させられました。

二人は九度山でどのような生活を送っていたのでしょうか。

なぜ九度山だったのか?

九度山は紀伊北部に位置し、紀ノ川の南岸にあります。高野山麓に位置し、不動谷川と丹生川の谷間からなる小さな村でした。

しかし、当初家康が流罪の地としたのは高野山でした。

真田父子以下16人の家臣たちも当初は菩提寺のある高野山の蓮華定院に入りました。しかし結局、山領にある九度山に落ち着きました。

流罪の身でありながら随分と勝手な行動ですが、高野山から九度山の庄屋に「昌幸様と幸村様のわがままは黙って聞いてやれ」と言われていたようです。

この流罪には幸村の妻子たちも同行していましたので、女人禁制の高野山では共に暮すことができないという理由から、高野山を少し離れた九度山にしたのかもしれません。

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九度山での生活は?

九度山での生活は完全なる禁錮生活というものではなく、ある程度の外出も認められるものだったようです。

のちに兄・信之が幸村と京で密会していたことから、そこで徳川打倒を画策していたと訴えられたのも、幸村が京に出向くことができる状況にあったからでしょう。

幸村はこの地で嫡男となる幸昌をはじめ、5人の子をもうけました。

そのため、生活は苦しく、信之や紀伊藩主・浅野家、高野山からの仕送りでは足りず、「臨時の仕送り40両のうち半分を送ってもらって有難いが、残る半分も1日も早く、5両10両でも良いから頭出しで送ってくれ」と故郷に仕送りの催促をしています。

こうした状況に疲れ果てた父・昌幸は慶長16年(1611)、九度山にて死去しました。しかし、罪人であるがゆえに葬式を執り行うことも許されなかったといいます。

屈辱の中で訪れた秀頼からの使者

慶長19年(1614)、幸村の元に秀頼の使者として大野治長が訪れました。大坂の役で共に戦ってもらえるよう誘いに来たのです。

治長はこの時幸村に支度金として黄金200枚、銀30貫目を渡したといわれています。さらに、大坂の役参加後は幸村を5,000人の将とし、さらに勝利した暁には50万石を与えると約束したと伝えられています。

無欲で知られている幸村であっても、長年の貧しい暮らしを思えば大量の黄金は目のくらむものだったかもしれません。

しかし、それ以上に自分を必要としている人がいる、そして真田の軍略を再び家康に見せつけるチャンスがやってきた、そうした思いが幸村を突き動かしたのではないでしょうか。

高野山に送られる際、父・昌幸は「家康をこそこういう目にあわせてやろうと思ったのに」と悔し涙を流したといいます。

父の涙をぬぐうのは今しかない。14年に及ぶ九度山での生活は、家康に対する憎しみをより強くする日々となっていたのでしょう。

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