新撰組から警視庁へ 斎藤一の生涯とは

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斎藤一は新撰組の三番隊組長です。剣は無敵の剣と呼ばれ、一説では沖田総司より強かったともいわれています。そして、多くの新撰組隊士が時代の流れに抗えず歴史の闇に消えたのと対照的に斎藤は藤田五郎と改名して警察官になり大正4年まで存命しました。

新撰組と警察官、二つの時代を生き抜いた斎藤一の生涯を追ってみましょう。

新撰組では粛清を担当

斎藤一の新撰組の立ち位置は、土方歳三の懐刀というポジションでした。

剣を取っては無敵の斎藤は、表の攘夷浪士の取り締まりのみならず、裏の新撰組の不平分子の粛清を担当していて、谷三十郎、荒木田左馬之助、武田観柳斎、長州藩のスパイ、御倉伊勢武の粛清に関与しています。

特に伊東甲子太郎が新撰組を見限り御陵衛士を結成して、離脱した時には、土方のスパイとして御陵衛士に加入、その情報を新撰組に流していました。

このように、土方の懐刀として裏工作に従事した斎藤は、新撰組の暗部を取り仕切る存在でした。

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新撰組滅亡、そして会津若松城へ

1868年、徳川幕府が崩壊して賊軍になると新撰組は徹底抗戦を唱える旧幕府勢力に合流して明治政府と戦う事になります。

斎藤一は、多くの戦場で前線に立ち続けますが、勢いに乗る明治政府に追いつめられ、土方歳三と共に転戦し、会津若松城に立てこもりました。ここで、土方歳三は局面の打開を求めて旧幕府勢力と共に会津を離れて、蝦夷地へと転戦する決断をしました。

しかし、斎藤一は同調せずに会津に残る決断をします。これが、土方と斎藤の永遠の別れになりました。斎藤一は容易に降伏せずに徹底抗戦しましたが、先に降伏した会津藩主、松平容保の使者の説得で投降します。

明治7年、藤田五郎として警視庁に出仕

捕虜になった斎藤は、会津藩士と共に斗南藩という3万石の寒村に移されます。そこで、斎藤は会津藩士の娘であった篠田やそと結婚、その後、元会津藩大目付の大身高木小十郎の娘、時尾と再婚しています。

この時の仲人は、なんと旧会津藩主の松平容保でした。ここには、斎藤が会津戦争を通して会津藩士と深い交流を持っていた事がうかがえて暖かい気持ちになります。斎藤一は、ただ冷酷なだけの人殺しでは決して無かったのです。

明治7年、斎藤一は東京に転居し藤田五郎と名前を変えて、警視庁に出仕します。かつて、幕府の手先として新撰組に所属していた男が、180度回転して、明治政府の警察組織に就職したのです。

この運命の数奇さには、思わず唸ってしまいますね。

明治10年、西南戦争で、功績を挙げる。

明治10年5月に藤田五郎は、警視隊9500名の一員として西南戦争に従軍します。警視隊は、不足する陸軍を補う為に派遣された臨時の師団ですが、その中には抜刀隊として、前線で斬り合う選抜隊もいました。藤田五郎は、元会津藩の佐川官兵衛、山川浩と共に抜刀隊に志願し西郷軍と血戦を繰り広げます。

元会津藩士の警視隊は、10年前の会津戦争の恨みを雪ぐという意識が強く正規の陸軍以上に奮戦したと言います。藤田五郎は、負傷しながらも西郷軍の大砲2門を奪取するという戦果を挙げて新聞に報道されました。

晩年の藤田五郎の穏やかな人生

藤田五郎は、明治24年に退職、麻生警察署詰外勤警部が彼の最後の階級でした。

その後は、会津藩士の口利きで東京高等師範学校付属東京教育博物館の看守(ガードマン)に採用されます。ここでの藤田は、同校の撃剣師範を勤め、生徒に剣術を教えていたそうです。

明治32年には、ここも退職して、東京女子高等師範学校に庶務掛、兼会計掛として勤務します。生徒の登校時には、藤田五郎は人力車の交通整理までかって出たと言います。かつて血なまぐさい戦場を駆け抜けた人物とは思えない穏やかな晩年ですね。

大正4年、藤田五郎は東京府東京市本郷真砂町で胃潰瘍により71歳で死去、剣豪らしく、最期を悟ったのか、死んだ時には座禅を組んでいたそうです。

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