山内一豊は側室を持たなかったというけど、それって珍しい?
山内一豊は、豊臣秀吉や徳川家康に仕えた戦国時代の武将です。元は浪人の出でありながら秀吉の下で出世を遂げ、豊臣家没落の後は、機を見て家康に存在をアピール。江戸時代には幕府から土佐20万石を与えられる大大名となりました。
そんな山内一豊の出世の裏には、妻である見性院の大きな助力があったとされます。一豊はこの正室との仲がとても親密で、側室を生涯持たなかったと言われています。歴史的に見て、武将の側室事情って実際どうだったのでしょう。側室を持たないことは、とても珍しいことだったんでしょうか。他にはそういう武将はあまりいなかったんでしょうか。
今日は、山内一豊の話を中心に、戦国武将と側室についてリサーチしてみたいと思います。
山内一豊には、本当に側室はいなかったのか
まず気になったのは、一豊には本当に1人も側室がいなかったのかどうかということです。
でもこれは本当に、彼に側室がいたという記録がかけらも残っていません。実の子とされるのも幼いうちに地震で亡くなったという女の子、與禰(=よね、与祢とも)の名前が見えるだけなのです。
この2つのことから、少なくとも公式にというか、周囲から側室として取り扱われていた女性はどうやら存在しなかったと思って間違いないようです。
ただ、一豊には湘南宗化(しょうなんそうけ)と呼ばれる出家した養子がいました。この人は幼い頃に山内夫妻に拾われて養育されたと伝わりますが、この少年が実は山内一豊の隠し子だったという説もあります。
もし、その説が真実だとすれば、一豊にとって公式の側室的な存在ではなかったにしろ、妻以外に関係を持った女性がいたことになりますよね。
ただし、この隠し子存在説、史料的な裏づけはとれていません。むしろ、一豊と妻はこの子をとてもかわいがっていたけれど、拾い子なので跡継ぎに立ててしまうと家臣が従わないだろうとの憂慮があり、出家させてしまったと伝わるくらいです。
山内一豊と妻の見性院、その夫婦仲は!?
ところで一豊と見性院、2人の間柄はどのようなものだったんでしょうか。仲睦まじかったんでしょうか。
巷では山内一豊の正室である見性院について、数々の美談エピソードが伝えられています。
例えば、一豊が織田信長の目立たない陪臣だったころ、見性院が自腹で黄金十両もの費用を捻出して、夫が欲しがっていた名馬を手に入れさせ、信長の馬揃えで一豊が面目を施したという話は有名です。
また、関ヶ原の戦が始まる直前のこと。一豊が家康の会津征伐に従っていた時に、見性院が大坂城から送られてきた手紙を未開封のまま使者に持たせて夫に転送したというエピソードがあります。その時、見性院は更に機転を利かせ、夫に状況を説明する自筆の手紙をこより状にして、その使者の笠の紐に編み込んで届けます。
そして、山内一豊は大阪から来た文をやはり未開封のまま家康に献上することで、自分はこれ以後徳川家に従うという意思を、きっぱり示したというのです。
この話は後世「笠の緒文」と呼ばれ、山内家がその後土佐20万石を拝領するほど、徳川幕府の信頼を得るきっかけとなったとされています。
でも、こうしてみると、見性院という女性はどうも夫唱婦随の良妻賢母というよりは、とても聡明ですが、その分、気の強い女性だったのではないでしょうか。
とにかく、かなりのしっかり者だという感じです。案外、一豊との関係もラブラブというより、多分、相当尻に敷いていたんじゃないかという気がしませんか。
とは言え、前述したように拾った子どもを2人の養子にして、可愛がって育てたりもしたようですから、気持ちは通じ合っていたの2人なのかもしれません。
笠の緒文の話なども、夫婦仲が良くないと、遠距離だけに手紙のやり取りだけでは大事な部分が伝わらなかっただろうと思いますし。夫婦の間にはきっと以心伝心的なものがあったのだろうと感じます。
戦国時代 側室を持たない武将は意外に多かった
さて、次はその当時、他に側室を持たなかった武将はどのくらいいたのか?という疑問に目を移しましょう。
これは、調べてみたら案外、妻一筋という武将もそこそこいました。多数派でこそありませんが、それほど珍しい存在でもなかったようです。
例えば明智光秀、宇喜多秀家、吉川元春、黒田孝高(官兵衛)、小早川隆景、柴田勝家、伊達晴宗(※伊達政宗祖父)、細川藤孝(幽斎)、直江兼続、毛利隆元などがそうです。
江戸幕府2代将軍である徳川秀忠も、正式な側室は生涯娶っていません。また、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三兄弟の父である毛利元就も、正室である妙玖の生前は側室を持ちませんでした。
なお、ここに挙げた武将たちは、それぞれ、多かれ少なかれ愛妻家の評判も取っています。やっぱり戦国武将にも愛妻家はいたんですね。その数が多いか少ないかは、皆さんのご判断にお任せしたいと思いますが…。