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真珠湾攻撃で捕虜となった酒巻和男少尉とは

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1941年(昭和16)12月8日早朝、ハワイのオアフ島の米海軍基地真珠湾に対し、南雲忠一中将率いる日本海郡機動部隊は航空攻撃を行いました。

太平洋戦争開幕となった真珠湾攻撃です。この真珠湾攻撃は奇襲攻撃だったといわれ、日本は米戦艦に大きな打撃を与えます。こうした中で、太平洋戦争の「捕虜第一号」となった人物が酒巻和男少尉でした。

酒巻和男とはどのような人で、どのような生涯を送ったのでしょうか。

「特殊潜航艇」の搭乗員となる

1918年(大正7)11月8日徳島県阿波郡林村に生まれた酒巻和男は、徳島県脇町中学校を経て、1940年(昭和15)8月7日に海軍兵学校を卒業(第68期生)しました。そして1941年(昭和16)12月8日、特殊潜航艇搭乗員として湾内に奇襲攻撃を行なうことになります。

この特殊潜航艇というのは、甲標的甲型と呼ばれるタイプで、秘匿名称を「特型格納筒」といいました。これを敵艦隊根拠地攻撃に使用することを発案したのは岩佐直治中尉で、彼は真珠湾攻撃時大尉に進級、自らも「筒」指揮官として攻撃に参加しています。

特殊潜航艇は二人乗りで、通信装置は短波無線機一台。兵装は45センチ魚雷二本で、艇首の発射管から撃つようになっていました。

特殊潜航艇搭載の潜水艦5隻からなる部隊は「特別攻撃隊」と呼ばれました。これは後に出現した「神風特攻隊」などの”必ず死に至る任務に当たる”「必死隊」ではなく、”決死の覚悟で危険な任務に当たる”「決死隊」でした。しかし攻撃終了後、特殊潜航艇搭乗員を収容することはできませんでした。

酒巻が搭乗した特殊潜航艇は伊24号潜水艦から出撃することになりました。出撃時すでにに潜航艇のジャイロ(羅針儀)の故障に気付いていましたが強行出撃します。

湾内を進撃していると、米駆逐艦「ヘルム」に発見され攻撃を受け、さらに攻撃回避中、何度も座礁と離礁を繰り返す内に魚雷発射管が破損してしまいます。

さらに浸水による蓄電池からの有毒ガスが発生したことなどから作戦続行不可能と判断し、母艦への撤退を決意します。しかし真珠湾の裏側であるワイマナロ湾で再び座礁。潜航艇が行動不能となり、潜航艇がアメリカ軍にわたることを防ぐ為に時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出しました。ところが、漂流中に稲垣ともはぐれてしまい、自身も失神状態で海岸に漂着していた所をアメリカ兵に発見され、ホノルルに移送されました。

「捕虜第一号」となる

真珠湾攻撃で使用された特殊潜航艇は全部で5艇で、乗員は全部で10名でしたが、酒巻以外は稲垣を含め全員戦死扱いとされました。酒巻が捕虜となったことを、大本営は傍受したVOA(Voice of America、アメリカ政府が運営する国営放送)から分かっていましたが、”戦死者は英雄で捕虜は屈辱”という価値観が喧伝されていたこともあり、酒巻の存在は極秘とされ、大本営は酒巻を除く9名を「九軍神」として発表しました。酒巻の家族は人々から「非国民」と非難されました。

但し、酒巻の上司で特別攻撃隊の指揮官・佐々木半九大佐は、“酒巻少尉は武運拙くして捕虜になったのだけど、出撃した酒巻少尉の心情は、ほかの九人と全く同じなんだから、十軍神として発表してもらいたい”と上申したそうですが、海軍上層部としては、明らかに捕虜となっているものを、軍神とはできなかった、という事情があったもいわれています。

捕虜になった直後に行われた尋問調書には酒巻が「殺してくれ、さもなくば名誉ある死を」と述べていたことが記されています。捕虜になることが国民の恥とされた時代、酒巻は捕虜収容所で舌をかんで何度も自決を試みたそうです。

しかし、思いとどまり、また同じく自決しようとした日本人捕虜の説得にもあたり多くの日本人を救っています。酒巻が捕虜生活を送ったおよそ4年間、収容された日本人の多くが、自暴自棄になって命を絶とうとしました。しかし、酒巻は死に急ぐ仲間たちを戒め、「全員で祖国に帰り、平和な日本を作ろう」と励まし続けたといいます。

また、ハワイの捕虜収容所内で起きたトラブルを捌いた際、錯乱した日本人捕虜たちに次のような言葉で諭したといわれています。

「自分も最初は顔を傷つけて人相を変えたり,2年余り写真を取らせなかったけれども,やがて一つの考えに到着した。そして後からくる自暴自棄の者たちに死ぬなら大義に死ね。つまらぬトラブルで生命を失ったり収容所で自殺するのはバカのすることだ」(吹浦忠正著『捕虜の文明史』より)

酒巻は規則正しく清潔を心がける生活を基礎に、「学ぶことによって生まれる生の肯定」を重視し、米国の地理歴史、米国事情一般、英語の基礎、数学を学びました。収容所に収監されている一般囚、他の国(ドイツ)の捕虜達との交流から、説教師が来て慰霊をしたり、話を聞いたりする時間も生まれました。

同じく捕虜としてアメリカ兵に捕らえられた原田昌冶氏は、1943年ころに移送されたウイスコンシン州のマッコイ収容所で酒巻に会い、彼のことを次のように語っています。

『彼は、流暢な英語で私たちのリーダーでした。私たちの面倒も、よく見てくれました。彼の存在は、私たちに誇りと勇気を与えてくれたんです。』

その後ハワイの捕虜収容所からアメリカ本土の収容所に移され、終戦後の1946年(昭和21)に復員を果たしました。

トヨタ・ド・ブラジルの社長になる

復員後は同姓の酒巻家の婿養子となります。捕虜時代を共にした豊田穣は中日新聞の記者として酒巻の談話を発表、その記事が契機となりトヨタ自動車工業へ入社することになりました。輸出部次長など勤め、1969年(昭和44)に同社の海外工場第一号であるブラジル現地法人「トヨタ・ド・ブラジル」の社長に就任します。また同地にて日系商工会議所専務理事も兼任し、1987年(昭和62)にトヨタ自動車を退職しました。

日本に帰ってきてから、酒巻は、多くの手紙を受け取りました。7~8割はその苦労をねぎらうものでしたが、その中には「腹を切って死ね」というものもあったそうです。

酒巻は戦後、戦友の会合に積極的に顔を出しましたが、戦争については多くを語らず、また捕虜生活については口を閉ざしたままだったそうです。それでも昭和24年に発行した著書『捕虜第1号』(新潮社刊,1949)のなかで、「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったからといって、何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか」などと、捕虜生活中に起きた心の葛藤を記しています。

1999年(平成11)11月29日、愛知県豊田市にて死去。享年81歳。

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