1537年、羽柴秀吉のちの豊臣秀吉生まれる。秀吉は尾張国愛知郡中村郷の下層身分の息子。
1546年、黒田官兵衛のちの黒田如水生まれる。官兵衛はの姫路城の城代・黒田職隆の息子。
出自の違うこの二人が義兄弟になることは本当にあったのでしょうか?
まず、二人が出会う頃のそれぞれの状況を見てみましょう。
官兵衛の状況
西に毛利輝元、東にいた織田信長は西に勢力を伸ばし、官兵衛のいる播磨はこの二つの勢力に挟まれてしまいました。そこで官兵衛は情報を集め、勢いのある信長に与することを主君である小寺政職に進言し同意をしてもらいました。
1575年、小寺政職から信長との交渉を任された官兵衛は秀吉を介して信長との謁見に成功します。
秀吉の状況
数々の合戦で手柄を立て長浜城主となった秀吉。この時に柴田勝家と丹羽長秀の姓から一文字づつ貰い「羽柴」の姓を名乗る様になっていました。
秀吉は官兵衛からの要請を受け信長と謁見させます。その時、官兵衛が信長に中国征伐を進言し、秀吉の中国征伐への足がかりとなりました。
秀吉の与力となる
1576年の英賀合戦で官兵衛は、奇襲攻撃を仕掛け500人の兵で毛利軍5,000人を相手に勝利します。摂津の有岡城主・荒木村重は、信長に官兵衛の活躍を報告。信長は官兵衛に感謝状を贈り、官兵衛は村重に感謝しました。
1577年、信長から朱印状が届き、中国征伐の為に秀吉を派遣する代わりとして、播磨諸将から人質を差し出すよう命じられます。官兵衛は自分の息子を連れて行き人質にします。
官兵衛の息子・長政は秀吉の長浜城に住むことになりますが、その人質生活は北政所に可愛がらてれていたといいます。
この時、信長は官兵衛を直臣扱いとし秀吉の与力となることを命じました。
中国征伐
1577年10月、織田信長が毛利攻めを決め、羽柴秀吉を大将にして大軍を播磨に送り込みます。官兵衛は播磨入りした秀吉に自分の居城である姫路城を明け渡します。官兵衛は二の丸に住むことになりました。
その際、秀吉は官兵衛に誓文を贈ります。その誓文は、義兄弟の契りを結ぶことや
毛利攻めの時には秀吉の軍師として指示を仰ぎたいという内容のものでした。
これが、秀吉と官兵衛が義兄弟だったと言われる所以なのです。
官兵衛と半兵衛
でもこの話には後日談があります。
秀吉には官兵衛のと共に双璧をなす軍師・竹中半兵衛がいます。
この二人は両兵衛・二兵衛と並び称される秀吉配下の軍師です。
この竹中半兵衛に、官兵衛が秀吉からの誓文を自慢した時のことです。
半兵衛はこの誓文を火鉢に入れて焼いてしまったのです。
官兵衛が驚くと半兵衛は「紙切れ一枚で約束が違うと不満に思うなら、この誓文は貴殿のためにはならない」と官兵衛に忠告します。それを聞いた官兵衛も「大切なものを見失うところだった」と感謝したと伝えられています。