秀吉の側室として大阪の役で最後まで豊臣家存続のため戦った淀殿。
その淀殿の乳母である大蔵卿局の子が大野治長です。
そんな治長は、苦戦を強いられる大阪の役で最後まで淀殿を支えただけでなく、色白でイケメン、さらには高身長だったことから秀頼の父親ではないかと噂されることとなります。
果たしてその真相はどうなのでしょうか。
一人だけないアリバイ
これまで秀頼の父親として噂されてきたのが、石田三成や片桐且元、そして大野治長でした。
しかし、秀頼の誕生日から逆算して淀殿が秀頼を身ごもったと考えられるころに、石田三成と片桐且元にはアリバイがあったのです。
秀頼誕生の前年といえば、秀吉がちょうど文禄の役(朝鮮出兵)を行っていた時期です。
石田三成は1592年(文禄元年)の6月から翌年5月まで、片桐且元は9月から翌年10月まで朝鮮に出兵していました。
つまり、二人には大坂にいた淀殿と密通することは、物理的に不可能だったのです。
そんな中、唯一アリバイがないのが大野治長でした。というのも、治長の動向についての記録がほとんど残されていないのです。
秀頼が高身長なのはおかしい?
秀頼の父親が秀吉ではないという疑惑は、秀吉が子ができにくい体質であったことと合わせて、その外見があまりに似ていないことにありました。
秀頼は身長が190cmを超え、さらには体重も160kgを超える超大柄な体格でした。
それに対して秀吉は、「禿ねずみ」「猿」とあだなされるほど小柄な体格でした。
こうしたことから、秀吉は父親ではないのではないか、さらには高身長の治長こそ秀頼の父親なのではないかと考えられたのです。
身長は遺伝する?
しかし、遺伝が身長に与える影響は25%しかないといわれています。
では残りの75%は何かというと、後天的な要因。つまり、栄養・運動・睡眠です。
そのことを踏まえて、秀頼の身長を考えると、生まれた時から天下人の子として栄養満点の食事を与えられ、さらには快適な環境でぐっすり眠れたということが、高身長になった理由といえるのではないでしょうか。
また、秀吉の身長が低かったことも、秀吉自身が低身長の遺伝子を持っていたというよりも、貧農の家庭で幼少期を過ごしたことが大きな原因であると思われます。
そうであれば、低身長の秀吉から高身長の秀頼が生まれるはずがない、という議論はなりたたないと考えられるのです。
美しい二人だからこその噂?
こうした秀頼の父親が別人であるという説は、江戸時代に淀殿を貶めるために作られたものであると考えられています。
しかしながら、淀殿といえば戦国一の美女として知られるお市の方を母にもち、さらに3姉妹の中で最もお市の方に似ていたと言われる美女。
一方、秀吉は「禿ねずみ」で「猿」ですから、まさに戦国時代の美女と野獣といったところでしょう。
それよりも、色白でイケメン、さらには高身長の大野治長のほうが淀殿の相手として絵柄的にも美しいような気がします。
もしかすると、そうしたことも江戸の人々にとって二人の間の密通の妄想を掻き立てる要因となったのかもしれませんね。