徳川吉宗が享保の改革を行った目的とは?
「暴れん坊将軍」のモデルとしても知られる8代将軍・徳川吉宗は「米将軍」ともよばれ、享保の改革を行って米価の安定を目指したことでも知られています。
吉宗はどのようにして米価を安定させたのでしょうか。また、なぜ米価を安定させる必要があったのでしょうか。
享保の改革とは
1716年、紀伊藩主だった吉宗は譜代・旗本の指示を背景に将軍に就任しました。
将軍に就任した吉宗は、のちに享保の改革と呼ばれる幕政改革を行います。
たとえば、行政・裁判の基準となる公事方御定書を制定したことや、目安箱を設置して庶民の意見を聞いたことが有名でしょう。
他にも「大岡越前」の名でドラマ化もされた江戸町奉行(のち吉宗に認められ寺社奉行に)の大岡忠相を登用したのも吉宗でした。
吉宗の享保の改革は広く有能な人材を登用したことや政治の刷新、都市政策、殖産興業と幅広く行われましたが、その中でも特に力を入れて取り組んだのが財政再建、つまり米価の安定だったのです。
江戸時代、米は安かった!
江戸幕府は天領400万石に旗本領260万石を加えた660万石から収められる米を主な収入源としていました。
これは全国の4分の1にもあたり、幕府が270年の長きにわたり支配することができた最大の所以となっていました。
しかし、米を収入源とすること自体すでに多くの問題をはらんでいました。
ひとつめは、米の価値は収穫量により上下することです。
江戸時代というのはすでに貨幣経済が浸透しており、武士は米を貨幣に替えて使わなければいけませんでした。
しかし、米価は収穫量により上下するもの。つまり、多くとれた年には安く、少ししかとれなかった年には高くなるのです。
現代でも台風がきたり雨が降らなかったりすれば、農作物はすぐ値段があがってしまいますが、江戸時代もそれはかわりません。
こうしたことを前提としてふたつめの問題は、基本的に米が大量にとれたことです。
理由は3つです。
- 農具が発達したこと。江戸時代は三又に分かれた備中鍬が考案され、以前より深く耕せるようになったり、千歯扱が発明され今までひと房ひと房扱箸で落としていた籾を一気に落とせるようになったりと、米の生産性を高めるような農具が発達していました。
- 農書により農業知識が普及したこと。これにより農民はより合理的に農業を行うことができるようになっていました。
- 新田開発です。17世紀初めに164万町歩だった田地は吉宗が将軍となった18世紀初めには297万町歩と約2倍に増加していました。
米が大量にとれ、その価値が下落することは幕府の収入の減少につながり、享保期の幕府は財政難に悩まされていたのです。
米価を安定させれば財政は再建できる?
そこで吉宗は財政難を解決するため米価を引き上げようとします。
市場に出回る米の量が減れば米の価値が上がるはず。ということで米の量を減らす方法として3つのことを考えます。
1つめは廻米です。これは江戸に入ってくる米を制限し、他に「廻す」というもの。2つめは囲米。これはもともと万一に米を備蓄するというものでしたが、この量を増やし、市場にでる米の量を減らそうとしたのです。3つめは酒造の奨励。酒の材料は米。米を酒に変えてしまおうというわけです。
この他にも吉宗は米価に直接干渉するため、堂島米市場や株仲間を公認したりしました。
これらの政策は効果抜群で米価はぐんぐん上昇します。しかし、あまりに効きすぎて一時米価は6倍にも高騰し、1733年には江戸で初めての打ちこわしが起こるほどでした。
その一方で
吉宗はその一方で新田開発を奨励し、幕府自ら開発するだけでなく、町人の資金で開発された町人請負新田を公認したりもしています。
当時の勘定奉行・神尾春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」と述べており、米の価値を上げ、価値を上げた米を大量に獲得しようという考えのようです。
しかし、米の流通量を減らそうとする政策と米の収穫量を増やそうとする二つの矛盾する政策が両立するはずがありません。
1735年~44年の間幕府財政は黒字となり財政は安定しましたが、それはあくまで一時的なもので、その後は再び悪化の一途をたどり、立て直すことができなかった幕府は、財政再建に成功した長州や薩摩ら雄藩に倒されることとなったのです。