Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

武田勝頼の評価は本当に愚将かを検証!

Sponsored Links

信玄の死後、10年ともたずに武田氏を滅亡させてしまった武田勝頼。

彼は愚将なのでしょうか、それゆえに武田氏は滅亡してしまったのでしょうか。

諏訪氏の後継者として誕生

勝頼は信玄の四男として生まれました。母は諏訪御料人とよばれた信濃諏訪の領主・諏訪頼重の娘です。

諏訪御料人は14歳のときに信玄の側室に迎えられましたが、この輿入れは決して平和的なものではなく、信玄が諏訪氏を滅ぼしたうえで、自らの子を諏訪惣領家の後継ぎとするためのものだったといわれています。

そうして輿入れの翌年誕生したのが勝頼だったのです。

そのため、勝頼は信玄の息子の中で唯一、武田氏の通字である「信」の字をつけられていません。

一説には、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に、「頼」は母・諏訪氏の通り字に由来しているといわれています。

このことからも、もともと勝頼は武田氏の後継ぎ候補ではなく、むしろ諏訪氏の後継者としての役目を期待されていたことがわかります。

Sponsored Links

猛将としての勝頼

勝頼の名前を教科書でみるのは、長篠の戦いだけなので、信玄の死後10年とたたずに武田氏を滅亡させてしまったというイメージが強いですが、勝頼には猛将としてのエピソードがいくつかのこされています。

元服の翌年、永禄6年(1563)のこと、信玄が上野の箕輪城を攻めようとしたところ、敵の偵察部隊とみられる武者5騎が、陣営に近付いてきました。これに気付いた勝頼は、秋山紀伊守とたったの2騎でこれを追いかけ、1騎を斬り落としたのです。

その後深追いが祟って、50騎ほどの敵に囲まれてしまいましたが、援軍が駆けつけたため勝頼は危地を脱することができました。

無謀さや詰めの甘さも感じられる話ですが、勝頼の若武者ぶりをほめたたえないものはいなかったといわれています。

また、天正2年(1574)に家康の支配下にあった高天神城を勝頼の大軍が包囲した時のエピソードは飛ぶ鳥落とす勢いの勝頼の活躍がわかります。

この高天神城は信玄が攻め落とすことができず、撤退した過去をもちます。

勝頼はこの城の弱点を巧みにつき、ひるむことなく突き進み、遂には調略をめぐらせ、落城させてしまったのです。

高天神城落城が滅亡の始まり?

しかし、偉大な父さえ落とせなかった城を落としたことは、勝頼を調子づかせてしまったのかもしれません。

この戦勝祝いの宴の席で、盃を受けた武田四天王の一人・高坂昌信は「この盃こそ、御家の滅びの盃」と漏らしたといわれています。

昌信は慎重な采配をとることで有名で、「逃げ弾正」の異名をとった人物です。

武田氏の軍学書として有名な『甲陽軍鑑』は昌信が長篠の戦いの後に武田氏の行く末を危惧した「諫言の書」がもとになっているといわれており、慎重さに欠けいつになっても若武者のように攻め続ける勝頼を危なっかしく感じていたことが伝わってきます。

そして昌信の予感が的中したように天正3年(1575)、勝頼は長篠の戦いで宿将の大半を失う大敗を喫してしまったのです。撤退を勧める重臣たちの意見を振り切っての出陣でした。

さらに天正8年(1580)、勝頼が意気揚々と落城させた高天神城が家康に包囲されてしまいます。長篠の二の舞となってはいけないと出陣を止められた勝頼は、その意見を受け入れ、翌9年高天神城は再び家康の支配下に入ることとなりました。

人望を集めることができなかったことが原因か

天正10年(1582)、姉婿の木曽義昌が織田に寝返ったことを皮切りに、親族衆の筆頭格・穴山信君の離反、郡内領主・小山田信茂の裏切りに遭います。

勝頼は最後侍婢ら50余名を引き連れ、甲府の東にある田野の小高い丘の上で自刃しました。

こうしてみると、始めこそ血気盛んともてはやされた勝頼でしたが、晩年は家臣の反対を押し切りながらの苦しい状況にあったようです。

なんだか黒田勘兵衛の息子・長政を思い起こしてしまうのは私だけでしょうか。長政も偉大すぎる軍師を父に持ち、その父を越えるべく時に無謀とも思える戦を行う人物でした。

勝頼も偉大すぎる父・信玄の背中を追い続けた、そんな生涯だったのかもしれません。

関連記事

ページ上部へ戻る