島原の乱を鎮圧したのは 実は西国無双こと立花宗茂!?
学校で学ぶ日本史にはまず出てこない英雄の一人が、立花宗茂ですね。
大友家の家臣からその武勇によって豊臣家の直臣となり、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と秀吉に言わしめたほどの逸材です。
そんな宗茂ですが、晩年になっても現役で、島原の乱に参戦しているんです。
明らかにおじいちゃんなんですが…どういうことなのでしょう?その辺を探っていきましょう。
70歳超えで島原の乱に参戦
1637年(寛永14年)、江戸幕府を揺るがせた島原の乱が勃発します。幕府側は想定外の大苦戦を強いられ、鎮圧の上使として派遣した板倉重昌が討ち取られるにあたって、ついに老中:松平信綱を差し向けました。その際に、宗茂は補佐として共に派遣されたのです。
ここでの宗茂の存在感は大きく、特に戦略面では大いに軍を支えました。共に参戦した黒田軍への夜襲があることを予告したり、籠城戦に持ち込むべしとの意見を出したのも宗茂であると言われています。
また、敵の本営である原城攻めにおいては一番乗りを果たし、武神再来とたたえられたという逸話もあります。
このようにいまだ現役で活躍できた宗茂ですが、なぜこの年になって戦に駆り出されることになったのでしょうか。次はそこを見ていきますね。
島原の乱に駆り出された理由
宗茂の人生は実に数奇なものです。その経験と、育まれてきた人格や人望が、結局は彼を島原の乱にまで出ていかせることになったのです。
関ヶ原の乱の後、宗茂は改易され浪人の身の上となってしまいました。加藤清正の客となったりしましたが、流れ流れて江戸にやって来ます。そこで本多忠勝の推挙により、江戸城へ召し出されるのです。なんとそこで徳川家康に認められ、秀忠(後には家光にも)の御伽衆(話し相手、軍事の相談役)となります。
その際に大名への復帰も果たし、大坂の陣では秀忠の軍師参謀役となりました。後に旧領であった筑後柳川の地を回復したのですが、これは、改易された西軍の大名で領地を回復した唯一の大名なのです。
そもそも、加藤清正や本多忠勝は宗茂の器量を認めていたからこそ、自分の客に迎えたり、幕府に推挙したりしたのでしょう。戦だけでなく、内政にも長け、領民に慕われていたといいます。嫌われる要素がなく、頼りがいがあるというのは、まさに急事に力を貸してほしくなるのではないでしょうか。
そして、島原の乱に大苦戦してしまった幕府としては、負けるわけにはいきません。「知恵伊豆」との異名を持つ松平信綱だけでなく、駄目押しの意味でも宗茂に行ってほしいと思ったのでしょう。宗茂は当時70歳と高齢でしたが、激しい戦を知る最後の世代で実戦経験は豊富でしたし、何より徳川家に恩を返す格好の舞台でした。
まとめ
宗茂の優秀さを聞きつけた義父の立花道雪(たちばなどうせつ)が、実父の高橋紹運(たかはしじょううん)に頼み込んで養子にもらったほどなのです(長男だったのに…)。
その後もすさまじい戦火をかいくぐってきた宗茂の経験は、やはり島原の乱で役立ったのでしょうね。