立花宗茂ってどんな人物? その人物像は絶賛の逸話ばかり!
人間というものは誰しも欠点があって、万人に好かれるというわけにはいかないものです。
ところが、誰からも悪く言われない稀有な人物が…いるんです、これが。
西国無双と名高い立花宗茂です。
誰からも好かれ、称賛され、戦に強いなんて、非の打ちどころがありません。
それでは、宗茂はどんな人物だったのでしょうか?ここでは、戦における宗茂に特化して見ていきたいと思います。
武将たちからの称賛の声
宗茂には、武将たちからの称賛の声が多く上がっています。
かつて、宗茂の主君であった大友宗麟は、「宗茂は義を重んじ、忠誠無二の者なので、ぜひ配下にお加えください」と、豊臣秀吉に宗茂を配下に置くようにと推薦しました。
その秀吉は、1587年(天正15年)の九州征伐の際の宗茂の活躍を見て、「忠義も武勇も鎮西一」「九州の逸物」と称賛し、直臣に加えて筑後柳河の地を与えたのです。
西の宗茂、東の忠勝
秀吉の直臣となった宗茂ですが、徳川家康にも武勇の誉れ高い本多忠勝が仕えていました。
小田原征伐の際に、秀吉は「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と諸大名の前で評しています。
この話には続きがあって、後に忠勝が宗茂のもとを訪れ、二人は親睦を深めたといいます。
このときの親交が、改易後浪人生活を送っていた宗茂を忠勝が呼び寄せ、幕府に推挙することにつながったと思われます。
関ヶ原の戦いにて、家康からの誘い
関ヶ原の戦いにおいては、宗茂には家康からの誘いがありました。
東軍に参加してくれたら、九州に百万石を与えるという法外な恩賞をちらつかせたのです。
しかし、宗茂はきっぱりと、「秀吉公の恩を忘れるくらいなら、命を絶った方が良い」と拒絶しました。
そして、西軍に参加したのです。残念ながら、関ヶ原の戦い本戦には大津城を攻めていたために参加できなかったのですが…。
その経緯については合わせてこちらをお読みください。
慶長の役で加藤清正の窮地を救う
秀吉に従い、宗茂は朝鮮出兵に参加します。1592年(文禄元年)の文禄の役における碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、目覚ましい功績を挙げました。そして1597年(慶長2年)からの慶長の役にも参加し、ここで加藤清正の窮地を救うことになるのです。
それは、1598年(慶長3年)の第二次蔚山(ウルサン)の戦いにおいてのことです。
清正が守る蔚山倭城を、明・朝鮮軍が包囲してしまいました。ピンチの清正を見て、諸将は会議を開いてどうしようか相談しますが、一向に結論が出ません。
すると、宗茂は「時間の無駄だから自分が行く」と1000人の兵を率いて出撃していきました。
そして、夜襲と鉄砲隊の攻撃で相手の先陣を撃破すると、策を弄して明軍を分断撃破し、清正を救ったのです。清正は「日本軍第一の勇将だ」と宗茂を絶賛しました。
このこともまた、浪人中の宗茂を清正が客として迎えたことにつながっていると思われます。
まとめ
どこに行っても大活躍の宗茂ですが、関ヶ原の戦い本戦に参加できなかったことは、宗茂自身心残りだったことでしょう。
もし、彼が関ヶ原の戦場にいたなら…と考えると、ちょっとぞくぞくしますね。歴史が変わったのかもしれません。
後年、徳川家光に「もし関ヶ原の戦いが長引いていたら、祖父・家康を討ったか」と聞かれて、「もしかするとそうしたかもしれません」と答えたそうです。