立花宗茂と誾千代の夫婦仲はどうだった!?
「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と豊臣秀吉に認められた戦国大名:立花宗茂はその優れた人格と武勇で有名ですが、夫に負けない個性を持っているのがその妻・誾千代(ぎんちよ)です。
近頃はゲームの中で取り上げられたりしていますよね。
個性あふれる夫婦ですが、その夫婦仲はどうだったのでしょうか。
宗茂(婿養子)と誾千代の仲は?
宗茂は大友家の家臣・高橋紹運(たかはしじょううん)の長男でしたが、同じく大友家の家臣である立花道雪(たちばなどうせつ)に請われて養子となりました。その道雪の一人娘が誾千代で、二人は夫婦となります。これが1581年(天正9年)のことで、当時宗茂15歳、誾千代13歳でした。
肝心の夫婦仲はというと、あまり良くはなかったようです。後にも述べますが、誾千代は一人娘だったために男子と同じように相続をするものと父が決めており、おそらく教育も受けていたはずです。そこへ本当の跡取りとして宗茂がやってきたのですから、心中穏やかではなかったのかもしれません。
1587年(天正15年)に宗茂は豊臣秀吉から筑後柳河を拝領しますが、誾千代はすぐに城を出て、宮永村に居を構え、事実上の別居生活に入ります。
また、関ヶ原の戦いの後に宗茂が改易され領地を失い流浪の身となりますが、誾千代は肥後国玉名郡に居住します。この後1602年に誾千代は亡くなりますので、共に暮らした時期は短かったと推察できます。そのためか、二人には子供はありませんでした。
立花誾千代とはどんな人物!?
誾千代は1569年(永禄12年)に大友家の重臣:立花道雪の一人娘として生まれました。道雪には男の子が生まれなかったため、彼女を跡取りと決め、大友家の許可を得て男子と同じように相続手続きを行いました。誾千代は7歳のときすでに立花城を受け継いだのです。これは本当に稀なことでした。
1581年(天正9年)に宗茂と夫婦になりますが、不和のためか別居状態になります。改易の後に宗茂が流浪の旅に出てからもそれが続き、病を得た彼女は1602年(慶長7年)に34歳で亡くなりました。
彼女には、男勝りの逸話が多く残されています。大友家についてまとめた「大友文書」によると、「(戸次伯耆守=立花道雪に)娘ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」とあり、誾千代の勇敢さを知ることができます。
また、宗茂が不在時は城を守っており、侍女たちにも武装させていたそうです。関ヶ原の戦いの折、筑後柳河に鍋島水軍が迫りますが、誾千代は甲冑をまとい鉄砲隊を指揮し、相手を近づけなかったと伝えられています。加藤清正が宗茂に開城を勧めるべく進軍していたところ、誾千代が住む宮永村付近を通過しようとしましたが、彼女の威嚇に遭って道を変えたという話もあります。
秀吉に手を出されそうになったけれども、女中に鉄砲を持たせ自分も武装して入城したため、秀吉は何もできなかったなんて噴飯ものの逸話も残っています。

By: Hajime NAKANO
まとめ
男子として育てられたようなものですから、誾千代はまさに「男」の性格だったのでしょう。宗茂とあまりうまくいかなかったのも仕方ないような気がしますね。
誾千代の「誾」は「慎み、人の話を聞く」という意味があるそうですが…名前の通りの女性だったかというと、少し違ったかなと思います。