斎藤道三がマムシと称されるのはなぜ?
斎藤道三は「マムシ」と称され、恐れられていました。
この通り名(渾名)である「マムシ」は、道三の経歴に理由があります。
どういう経歴をもって美濃国を平定したのでしょう?
「斎藤道三」という人物に迫ってみます。
マムシ
そもそも「マムシ」とはなにを表すのでしょう。
[蝮]クサリヘビ科の毒蛇の総称。灰褐色の地に大きな銭型の斑紋がある。蛙、鼠などを捕食する。はみ、くちばみ。
[語源・由来]蝮の語源は「真虫」であろう。ヘビは「長虫」と言われ、虫の一種とされていた。その中でもマムシは毒を持っていて恐ろしい虫であるから、虫の中の虫と言う意味で「真虫」となったのではなかろうか。「蝮」という漢字は「膨れた腹の虫」を表している。(「語源由来辞典」より引用)
つまり、道三は「恐ろしい」という意味で「蝮の道三」と称されていたことになります。
油商人として
道三はもともと京都の寺に預けられ、修行に励んでいましたが、やがて還俗して油商人の娘と結婚します。
こうして道三は油の行商人となるのです。
当時は山崎屋庄五郎と名乗り、じょうごでなく柄杓を使い、しかも永楽銭の穴を通して客の壺に油を注ぐというパフォーマンスで人気者となります。
「もしこの穴のふちに少しでも油がかかったなら、代金は頂きませぬ」…という口上もしていたとか。
頭も切れる、口も上手い、器用な人だったようです。
国盗り
道三は1533年に家督を継ぎ、長井新九朗規秀として登場します。
この長井性は美濃守護守土岐氏の家臣のものでした。
父親の代で、すでに長井を名乗るまでに出世していたのですね。
土岐氏は200年にわたって守護職を務めてきたのですが、応仁の乱以降は勢力争いが絶えず、つけいる機会はいくらでもあったようです。
その隙につけこんだのが、道三の父だったのでしょう。
1538年、守護代の斎藤利隆が没すると、規秀(道三)が家督を継ぎ、斎藤利政と改名しました。
1541年、道三は土岐頼芸の弟である頼満を毒殺し、ここに頼芸と道三の対立が浮き彫りになります。
1542年、道三は土岐頼芸とその息子を尾張へ追放します。
このような経歴から、道三は「蝮」と称されるようになりました。
下剋上そのものの人生ですね。
道三だけで「国盗り」はならなかった?
ところが、近年では道三だけで国盗りを行ったのではないと言われています。
どういうことでしょうか?
道三の父は進左衛門といいます。
この進左衛門はもとは京都の僧でした。
その後還俗して美濃の長井氏に仕え、やがて長井氏を名乗るほどに出世したのです。
1525年、進左衛門は長井長弘とともに謀反を起こします。
これによって、守護の土岐次郎、斎藤本家の当主利隆、守護代斉藤利良らを追放し、進左衛門と長井長弘が実権を持つことになります。
いつごろ道三が進左衛門に代わったのか分かりませんが、父の代から国盗りは始まっていたようです。
性格
性格に関する記述などは見当たらなかったのですが、商人として成功していた(話題になっていた)ことから、処世術に優れた、弁舌が巧みで人当たりの良くて調子の良い…されど頭も切れるような人物像が描けると思います。
長井から斎藤に出世したことも、要領が良かったのではないかと思われます。
また、娘婿である信長を高く評価していたことから、人を見る目もあったのでしょう。
その割には息子の義龍は「無能」と評し、挙句謀反を起こされたのですから、必ずしも正しく人を見ることが出来た訳ではないでしょうね。
謀反が起きた時、道三は義龍の活躍を聞いて悔やんだそうです。
下剋上
それにしても、何故道三は主君を退けて美濃を掌握したのでしょう?
内戦を憂いて…というわけではなさそうですし、ただ単に親子揃って野心家だったのでしょうか?
それにしては上洛など考えていなかったようですし…。
理由は推測するしかないのですが、もし道三がずっと商人のままであったなら、歴史に名を残す豪商になっていたかも知れません。