斎藤義龍は斎藤道三の子ではなかった!?
織田信長の義父である斎藤道三。
彼の息子は斎藤義龍といい、義龍は信長のライバルであったともされます。
道三の後を継いだ義龍ですが、彼は父に「無能」と評され、次第に義龍の弟へ家督を譲ろうとまで考え始めます。
それは何故でしょうか?
検証していきます。
蝮の子?
斎藤義龍は、斎藤道三の長子で嫡男です。
ところが、斎藤道三によって乗っ取られた元の美濃領主・土岐頼芸の子ではないかとの説があります。道三は頼芸の子を養子にしたとか。
義龍の母は道三の側室・深芳野です。彼女はもともと土岐頼芸の愛妾でしたが、頼芸に認められた道三の側室とされます。
下賜された…とでもいうのでしょうか。
現代の感覚で言うと、愛妾を払い下げるなどとは信じがく、有り得ないことなのですが。
まぁ当時は主君が絶対ですから、双方黙って従うしかなかったのでしょうけど。
道三の側室になったとき、深芳野はすでに頼芸の子を懐妊しており、その子どもこそが義龍だというのです。
深芳野を側室にした時、道三はまだ頼芸に仕えていましたから、文句も言いようがなかったのでしょう。
ですが、義龍が頼芸の落胤だという話しは江戸時代に編纂された『美濃国家系譜』に見られる記述ですので、真相は分かりません。
譲られたものの…
1554年、道三は髪をそって隠居し、家督を義龍に譲ります。
しかし、譲ったのは表面上だけ。実権は道三が持ったままでした。
この家督交代は、道三の強引な手法に不満をもった家臣たちをなだめるための策でした。
ですので、義龍を評価して家督を譲ったわけではないのです。
義龍は道三より「無能」とのレッテルをはられていたようです。
義龍は2メートルほどの巨漢でした。
ですから、道三は「体だけはデカくて無能だ」とでも思っていたのかも知れません。
いずれにせよ、道三は嫡男であるはずの義龍を良く思っていなかったようです。
道三は義龍よりもその弟の龍重を偏愛し、義龍を退けて龍重を後継者にたてようとします。
うとんでいる義龍よりその弟が可愛く思えるのは当然かもしれませんが、形だけでも義龍に家督を譲ったあとなのですから、もう少し義龍を立てても良いかと思うのですが…。
下剋上を体現し、蝮と恐れられる道三ですから、義龍は殺されかねません。
それを危惧したのかどうか、義龍は弟たちを殺害し、ついには道三へ謀反を起こします。
謀反の理由は
当時、道三への施政への非難は高まっていたようです。だからこそ義龍に家督を譲ったわけですからね。
義龍謀反の知らせを聞いた道三は兵をあげようとしますが、その下剋上の経緯から家臣の信頼は薄く、十分な兵力を集められずにいました。
対する義龍は旧土岐氏の家臣などが付き、兵力は1万7千とされます。
道三に対して圧倒的な大軍です。
1556年、道三は子である義龍に撃たれて死亡します。
下剋上の蝮は、自らも下剋上によって最期を迎えることになったのです。
どんなに「無能」と評価していようとも、やはり蝮の道三の子だった…という訳でしょうか。
義龍が謀反を起こしたのは自分の地位を守るためでしょうか?
それとも、家臣や民衆の声を聞いたからでしょうか?それは分かりません。
ですが、義龍には土岐氏の軍団が付いたのですから、義龍はやはり土岐頼芸の子だったのかもしれませんね。
もしそうだとすれば、道三が義龍をうとんじた理由も…少し分かる気がします。
かつての主君の子であり、しかもその主君は自分が討ったのですから…うとんじると同時に、怖かったのかも知れません。