源義経と天狗にまつわる伝説とは?
源義経は、幼少時代を鞍馬山ですごしました。
平家全盛の時代、源氏の子供ということで監視されていたはずですが、どうやって武芸を身につけていたのでしょうか。
能の演目『鞍馬天狗』には、天狗に剣術を習っていた源義経の逸話があります。
今回は、源義経と天狗にまつわる伝説について迫ります。
源義経が鞍馬山に預けられた理由とは?
源義経は平安時代末期の1159年、源義朝と常盤御前との間に誕生します。
鎌倉幕府を開いた、源頼朝とは異母兄弟の関係です。
平治の乱で、父・義朝は平氏との戦いに負け、戦死します。
平清盛は、子供が成長後に報復することを恐れ、源義経を殺すよう命じます。
常盤御前は、義経を連れて逃げますが、平家に捕まってしまいました。
しかし、平清盛は常盤御前のあまりの美しさに心を奪われ、子供である源義経を殺さないかわりに、自分の妾になるように迫りました。
常盤御前は承諾し、源義経を鞍馬山に預けることとなります。
源義経7歳の時です。(11歳だったという説もあります。)
源義経は、天狗に剣術を習っていた?
鞍馬山での、源義経の動向は、正式な記録はありませんが、数多くの逸話が『義経記』や能の演目などに書かれています。
特に有名なのは『鞍馬天狗』での、天狗に剣術を習っていたという話です。
鞍馬山の僧が、稚児たちを連れて花見の宴にやってきました。
そこへ、見知らぬ山伏がやってきてます。
この山伏との同席を不快に思った僧たちは、ひとりの稚児を残して帰ってしまいました。
山伏が残された稚児を可哀そうに思っていると、稚児の方から山伏に話かけてきます。
この稚児は、源義経でした。
当時、鞍馬山は平家の子供たちが修行に預けられる場所でした。
源義経は、源氏の子である自分は誰にも顧みられないと嘆きます。
山伏は同情し、源義経に鞍馬山の山道を案内したり、愛宕山や吉野の桜などの近隣の名所を見せて、慰めます。
そして、山伏はこの鞍馬山に住む大天狗であると明かし、義経に平家を倒すときが来たら協力すると約束します。
その後、山伏は義経に、兵法の奥義や武術を伝えるのです。
源義経は、兵法を伝授した鞍馬山の天狗の正体とは?
源義経が、鞍馬山の山中で天狗から剣術や兵法を学んだというこの話は創作だと考えられていますが、鞍馬山で兵法・剣術の修行を行い、平家打倒の意志を固めたのは間違いないようです。
天狗の正体は、義経の父・義朝の遺臣が身を隠すために天狗の面を被っていたという説や平家に不満を持っていた鞍馬寺の僧ではないかとも言われています。
元々、源義経は、鞍馬山に預けられた後、出家させられる予定でした。
昼間は僧になるため仏教や儒教などの学問を学び、夜になると密かに寺を抜けて武芸に励んでいたようです。
剣術の腕はどれくらいだったのか
物語では源義経は、鞍馬山に現れる物怪を相手に、縦横無尽に飛び跳ねて、剣術の腕を磨いたと書かれています。
武蔵坊弁慶と出合った京都五条橋でも、義経は橋の欄干を飛び回り、とても身軽だったとあります。
このような神業を身に着けた義経ですが、力はあまりなかったようです。
『平家物語』の「弓の段」に、壇ノ浦の戦いで、源義経が自分の弓を海に落とし、危険を犯してその弓を取りに行く様子が記されています。
周囲の家来は「弓ぐらいで・・・」と眉をひそめますが、義経は「大将の弓がこんなに弱いと敵にわかれば、馬鹿にされてしまうだろう」と言ったといわれます。
義経は剣術家というよりは、優れた戦術家でした。
「一ノ谷の戦い」で、平家が陣をしいた場所は、南は海、北は山、となっている地形でした。
平家は、平地の西もしくは東から攻めこまれると構えていましたが、義経は山側から夜襲をかけます。
意表を突かれた平家は、この戦いで惨敗します。
源頼朝は、鞍馬山で剣術だけではなく兵法も学んでいたので、このような他の武将では考えつかない戦術ができたのかもしれません。
しかし、兄である源頼朝からは、その才能を恐れられるようになり、ついには「義経討伐」の命令をだされてしまうのです。