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なぜ源頼朝・源義経兄弟の間に確執がうまれたのか?

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鎌倉幕府を開いた源頼朝とその樹立に武功をもって貢献した源義経。歴史上とても有名なこの異母兄弟の最期は、確執ゆえに兄が弟の討伐を命じるという悲しいものでした。

なぜ二人の間に確執がうまれてしまったのでしょうか。

源平の争乱で活躍した弟・義経

1160年の平治の乱により源氏勢力を排除した平氏は後白河法皇と結び、平清盛が朝廷における最上位である太政大臣に任命されるなど、朝廷の重役を一族で占めるほどの栄華を極めました。こうした中、1180年に高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた安徳天皇が即位すると、皇位継承が絶望的となった以仁王が源頼政とともに挙兵し、平氏の追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を目指した令旨を発布し、源平の争乱が開始したのです。

頼朝もこの以仁王の令旨に応じて流刑の地・伊豆で挙兵しました。そこにやってきたのが異母弟で奥州藤原氏に身を寄せていた義経でした。その後の義経の戦功が華々しいものだったことは、『平家物語』にも記されています。もちろんフィクションの部分も多くあるとは思いますが、義経の活躍が源氏の勝利に大きな貢献をしたことは間違いないでしょう。

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義経の武功を讃えなかった兄・頼朝

しかし、頼朝はそんな義経の活躍を褒め称えることはしませんでした。

1184年に摂津・福原で起こった一の谷の戦いでは、攻め入ることはできないと思われた断崖絶壁を駆け下り、意表を突かれた平氏を混乱の内に敗走させたといわれています。

「鵯越の逆落し」と呼ばれる有名なエピソードです。義経はこの勝利により意気揚々と京都に凱旋します。ところが頼朝は何の恩賞も与えないばかりか、その武功を讃えることもなかったのです。

 

その後も平氏討伐に尽力した義経ですが、頼朝はこの弟を褒め讃えることはありませんでした。

しかも、終いには壇ノ浦の戦い後、捕虜を連れて鎌倉入りしようとした義経を、鎌倉の手前にある腰越というところで足止めし、鎌倉に足を踏み入れることも許しませんでした。

義経はこれに対し、自らの武功を誇る一方で頼朝の仕打ちを嘆き、身内の情に訴え許しを請う「腰越状」を頼朝に送っています。

しかし、頼朝からの返事は届かず、義経は悲しみに暮れながら京に引き返しました。義経はこの時、「関東において頼朝に怨みを抱いている者は、義経に着くだろう」と言い放ったそうです。

頼朝と義経の確執の理由

二人の確執の最大の理由は、義経が後白河法皇から任官されたことにあります。その点で二人の確執の原因は後白河法皇にあったといえるかもしれません。

後白河法皇は一の谷の戦い後、義経を平氏追討の褒美として検非違使に任命しています。検非違使は京の治安を守る警察のような仕事で、平安時代初期・嵯峨天皇の時代に設置された令外の官です。

さらに「腰越状」の返事がもらえず、京に引き返した際には「伊予守」(伊予国の国司の最上位)に任命されています。加えて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司にも補任されています。

どれも当時(平安時代末の院政期)すでに形骸化していた役職ではありますが、任官を受けた事自体、義経が朝廷政権の下に組み込まれたことを意味しました。頼朝はこれが許せなかったのです。

頼朝は平氏のように朝廷政権の下に組み込まれることなく、朝廷から独立した武家政権の樹立を目指していました。

そのため、義経のように御家人たちが頼朝の推薦も許可もなく朝廷に直接任官されれば、頼朝の目指す政権の基盤が根底から崩れてしまうことになるのです。さらに平氏の捕虜である平時忠の娘・蕨姫を娶るなど、かつての平氏の地位を継承しようとする動きは頼朝に深い疑念を抱かせることになりました。

他にも、源平の争乱での義経の活躍は義経の独断専行によるもので、壇ノ浦の戦いでもそのせいで安徳天皇と清盛の妻・時子を自害に追い込み、三種の神器の一つである宝剣を失ってしまったと考えられたことも頼朝の気に触ってしまったと考えられています。

加えて源平の争乱で義経の補佐を務めた梶原景時は「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状を頼朝に送っており、新政権の樹立を目指す頼朝にとって義経の動きも存在も看過できなかったのだと考えられます。

冷徹すぎる?頼朝の対応

その後の義経は同情を禁じ得ないほどの状況に追い込まれます。

頼朝追討を掲げ挙兵するも同調する武士はおらず、確執の原因となった後白河法皇にも裏切られ。最期には再び奥州藤原氏を頼り平泉にかくまわれましたが、兄・頼朝の差し向けた義経追討軍により討ち取られてしまいます。「判官贔屓」という言葉が生まれるのも当然な気がします。

そのため、頼朝は冷徹な人物と評されてきましたが、頼朝の人柄を知るための資料となる鎌倉幕府編纂の歴史書『吾妻鏡』は、あえて頼朝の冷徹さを強調しているともいわれ、先に触れた「腰越状」の内容もそうしたことから脚色されたものとみられているそうです。

しかしながら、平安後期から鎌倉時代というのは「忠義」や「情」による主従関係ではなく、あくまで恩賞として「土地」を安堵してくれるのかどうかということが重要視されていた時代です。

土地の安堵ができないのであれば、一方的な主従関係の解除も当たり前というのが常識です。その点で、「兄弟の情」に訴えられて揺らぐようでは、そうした御家人たちをまとめあげ武家政権を樹立することなどありえなかったでしょう。トップに立つものというのはいつの時代も冷徹すぎるほど揺るがない一本筋を通すことのできる人物なのかもしれません。

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