桓武天皇が恐れた怨霊の正体は自分の弟だった!?
第50代天皇で、平安京に遷都し平安時代の幕開けを築いた桓武天皇。
彼は怨霊を恐れて遷都を行ったと言われていますが、いったい誰の怨霊を恐れていたのでしょうか。
怨霊の正体
結論を先に述べると、桓武天皇の同母弟である早良親王が怨霊となって桓武天皇を苦しめたとされます。
桓武天皇は自身の息子である安殿新王に皇位を譲りたかったのですが、まだ皇太子にするにもまだまだ幼い子どもでした。
このまま安殿親王を皇太子にすると、もしすでに45歳を過ぎている桓武天皇が、安殿親王が成人する前に崩御してしまったら、幼帝が立つという可能性がでてきます。
そういった事態を避けるために、同母弟の早良親王を皇太子としました。
早良親王が不婚で子どもがいなかったことも皇太子にされた理由となりました。
(※皇位継承問題がなく次は安殿親王が即位できる)
しかし、桓武天皇が山背国の長岡の地に遷都して間もないころ、造長岡宮使だった藤原種継が暗殺される事件が起きます。その暗殺犯として早良親王の名があげられます。
早良親王は捕えられ、皇太子位をとかれ、乙訓寺に幽閉されます。早良親王は無実を訴えるために絶食し、淡路国に流される途中で憤死しました。
実際に早良親王が種継暗殺事件に関与していたかどうかは不明のままです。
早良親王が暗殺犯にしたてあげられたワケ
なぜ、早良親王は皇太子でありながら種継暗殺の犯人として疑われたのでしょうか。
それには桓武天皇が長岡に遷都したことが関連してきます。桓武天皇が長岡の地に遷都した理由はいくつかありますが、そのうちの一つに東大寺や大安寺に代表される南都寺院など、既存の仏教勢力や貴族勢力に距離を置くためということがあります。
しかし、早良親王は逆に、南都寺院との繋がりが深かったのです。
(※皇太子になる前は、皇位継承の可能性が低かったことから、出家して東大寺や大安寺に住んでいた)
そのため、早良天皇は長岡京遷都を阻止するために、造長岡宮使であった藤原種継を暗殺したのではないかと考えられたのです。
怨霊が起こしたとされる? 数々の祟り
早良親王が憤死した後、次のようなことが桓武天皇を襲いました。
- 次の皇太子にたてられた安殿親王(後の平城天皇)の発病
- 桓武天皇妃である藤原旅子、藤原乙牟漏(安殿親王の生母)、坂上又子の死
- 桓武天皇の生母である高野新笠の死
- 疾病の流行
- 洪水による被害
これらは早良親王の祟りだと人々は恐れました。
怨霊を鎮めるために
桓武天皇はこの早良親王の怨霊を鎮めるために、数度鎮魂祭を執り行っております。
また、崇道天皇と追称し、亡骸を大和国に移送し手厚く葬りました。そして、各地に親王を祀る神社を建てています。
さらに京の鬼門に位置する高野村(現在の京都市左京区上高野)には京都で唯一の早良親王のみを祭神とする神社(崇道神社)を建てています。
これほどのことをするまでに桓武天皇は怨霊を恐れ、自分が早良親王にしたことに対して罪悪感を感じていたのが伺えますね。