細川忠興と妻ガラシャ その夫婦関係は円満だった?

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細川忠興とその妻ガラシャは、その奇妙な(愛憎入り乱れると言ったほうが適切でしょうか)夫婦関係で、戦国時代において際立った存在感を放つカップルと言えるでしょう。

その夫婦関係は、どのように形成されていったのでしょうか?

主君が仲介した政略結婚

細川忠興は、1563年(永禄6年)、当時室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えた細川藤孝の息子として京都に生まれました。

父:藤孝は、第15代将軍足利義昭が織田信長と対立関係になると、信長に従うようになり、忠興は信長の嫡男:織田信忠に仕えるようになります。

一方、細川ガラシャは、1563年(永禄6年)、明智光秀の三女として生まれました。諱は珠(たま)といいます。

織田信長の仲介があり、2人は1578年(天正6年)に夫婦となりました。お互いの父(細川藤孝と明智光秀)がともに信長の家臣であったことも決め手になったでしょう。

同い年の二人は、美男美女のカップルとしても有名でした。夫婦仲も良く、結婚の翌年には長女:ちょうが生まれ、次の年には長男:忠隆が生まれています。生涯で3男2女をもうけました。

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本能寺の変で関係に変化が!?

ところが、1582年(天正10年)の本能寺の変が起こってから、歯車が狂い始めます。

ガラシャ(当時はまだ珠でしたが、便宜的にガラシャで統一します)の父:明智光秀が本能寺の変を首謀し織田信長を亡き者にします。

その後、羽柴秀吉によって光秀が討たれたため、彼女は逆臣の娘になってしまいました。忠興は彼女を離縁することはありませんでしたが、羽柴方の目も気にしたのか、丹後国に幽閉してしまいます。幽閉が解かれて彼女が屋敷に戻ってきてからは、忠興は彼女の一挙一動を監視するようになり、その関係は歪んだものになっていくのです。このことが、彼女がキリスト教に傾倒し、改宗するきっかけとなるのでした。

関ヶ原の合戦に向けて

1600年(慶長5年)、ついに悲劇が訪れます。

忠興は、徳川家康に従い上杉征伐のため会津へと出兵していました。その際、彼は留守を預かる家来にこう言い残して出陣したのです。

「自分が不在のときに、妻の名誉にかかわるようなことがあれば、妻を殺せ」と。

そして、家康が上杉征伐に遠征した隙に、石田三成が、家康に近しい大名の妻子を人質に取る作戦に出ました。三成の手勢は、ガラシャがいた屋敷を取り囲み、人質になるよう迫ります。

ガラシャは、要求を拒絶しました。そして、屋敷の中の侍女や婦人たちをすべて外へ逃がした後、家老の小笠原秀清の介錯により最期を遂げたのです。

キリシタンであった彼女なので、自身を殺めることはなく、家来に自分を殺させました。

距離的に、忠興が彼女を助けに行くことはもちろん不可能でした。名将として名高かった彼ですから、こういうことが起きることは想定内だったはずです。

しかし、忠興の愛はそれはそれは倒錯したものでした。ガラシャを四六時中監視していたくらいなので、彼女が他の人間の目に触れたり、ましてや人質として取られるなど彼にとっては耐えられないことだったのです。

そんなことになるくらいなら、死んでもらわなければならないというのが、彼の結論でした。

ガラシャの死後の忠興

ガラシャの死後、忠興はイタリア人宣教師オルガンティノに教会葬を依頼し、葬儀にも参列しています。彼女がキリスト教に改宗したことを許したということなのでしょうか。結局のところ、忠興はやはりガラシャに深い愛情を抱き続けていたのかもしれません。

一方、ガラシャの壮絶な最期はイエズス会の宣教師たちによって彼らの本国に伝えられ、後世には戯曲のモデルにもなりました。

すべては、本能寺の変からおかしくなっていったわけですが、この事がなければ、二人は絵に描いたような仲睦まじい夫婦でいられたのでしょう。

時代の渦というものは、実に過酷な運命を人に課すものですね。

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xiao

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歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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