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戊辰戦争 榎本武揚は何故、新政府に許された!?

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戊辰戦争の最後の決戦場、北海道の函館五稜郭。

ここは、新撰組の副長土方歳三、最期の地として知られています。この五稜郭で旧幕府軍を率い戦ったのが、総裁であった榎本武揚でした。

当然、敗戦後は責任を取らされて不遇の人生を・・・と思いきや、榎本は大臣を歴任し華族に列せられます。

どうして、賊軍である榎本は新政府に許されたのでしょうか?

生きる百科事典だった、榎本武揚

榎本武揚は、外国語に堪能である他に、国際法も熟知した人物でした。

英語はジョン万次郎の私塾で学び、オランダにも留学して、国際法、軍事知識、船舶に関する知識を吸収しています。

当時の日本人として、得られる最先端知識を得た武揚は、5年間の海外留学の後、1867年最新鋭戦艦開陽丸と共に帰国を果たし、いきなり海軍奉行として、海軍のトップに立ちます。

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敗北を受け入れず、幕府海軍を率いて蝦夷地へ遁走

折角、西欧の最先端知識を吸収し幕府の役に立とうとした榎本ですが、時代は、もう徳川幕府を必要とはしませんでした。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜が薩長連合軍に降伏した後も榎本は断じて降伏せず、幕府艦隊を率いて江戸湾を脱出し、蝦夷地(現北海道)に向かい、ここで蝦夷共和国を樹立します。

榎本は、国際法の知識を駆使して、蝦夷を独立国として諸外国に承認させますが、相次ぐ海上での事故で、軍艦を失い、戦費が枯渇して士気が低下すると、欧米列強は明治政府に肩入れし、蝦夷共和国は崩壊に向かいます。

国際法の辞書を黒田了助に託した縁で助命される

蝦夷共和国軍は、兵士が逃亡し、弁天台の火砲を新政府軍に破壊されて、攻撃力が喪失し、榎本は降伏を決意します。そして、若い頃から肌身離さず持っていたオルトラン著「万国海律全書」を戦災から守る為に新政府軍の参謀、黒田了介(後の清隆)に送ります。

黒田は、万国海律全書に克明に記された注釈の多さに驚き、榎本の才能に感服すると同時に、この人物を殺してはならないと決意します。そして、新政府軍要人を説得し、とうとう榎本の助命を実現させるのです。榎本の博覧強記が、榎本の命を救ったのでした。

続々と名誉を回復する旧幕府軍の人物

榎本は3年程、牢獄暮らしを体験した後に、黒田の力で北海道開拓使の官吏として採用されました。それを皮きりに、駐ロシア大使、海軍卿、逓信大臣、文部大臣、農商務大臣という重職を歴任します。

榎本ばかりではなく、明治も10年を過ぎたあたりから、旧幕臣の名誉回復と新政府への参加が顕著になっていきます。その理由は、明治新政府の人材の無さがありました。時の勢いで政府高官に上り詰めた薩摩・長州の官吏の中には政治の見識などなく、いまだに攘夷を叫ぶ者まで居ました。

本格的に日本を統治し始めた明治政府にとっては、例え旧幕府の要人であっても、登用しないといけない事情があったのです。

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