薩摩藩主 島津斉彬はルイヴィトンがお好き?
現在もたくさんの愛用者がいて高級ブランドの代名詞ともいえるルイヴィトン。そのルイヴィトンを日本でいちはやく愛用したといわれているのが薩摩藩主・島津斉彬です。
篤姫を徳川将軍家に嫁がせたことでも知られる斉彬ですが、そんなおしゃれな一面があったとは。
ここではルイヴィトンと薩摩藩や日本とのつながりについてみていきたいと思います。
ルイヴィトン社の誕生
ルイヴィトンは1854年、世界初のトランク専門店としてフランス・パリに創業しました。このころのトランクは現在よく知られているダミエラインやモノグラムではなく、灰色のキャンバス地で覆ったものだったそうです。
1860年からトランクの需要が高まったことでヴィトン社は規模を拡大、万国博覧会での銅メダル獲得で世界的に評判となり、エジプト総督・イスマーイール・パシャやロシア国王・ニコライ2世、スペイン国王・アルフォンソ12世からトランクの注文を受けるようになりました。
島津斉彬が1858年に死去していることを考えると、ヴィトンのトランクを愛用したとされるのはそれ以前ですから、かなり早い時期ということがわかります。斉彬はどうやってルイヴィトンのトランクを入手したのでしょうか。
斉彬のルイヴィトンの入手経路
斉彬がルイヴィトンのトランクを入手した経路について詳しい記述は残念ながらありません。しかし、琉球を通して入手した可能性が高いのではないかと思われます。
当時の日本は「鎖国」といわれる極度の制限貿易を行っており、そのうち琉球との貿易は薩摩藩に一任されていました。
その琉球に対し1844年から1847年にかけてイギリスやフランスの軍艦が上陸し交易を要求しています。そして1846年には当時の老中・阿部正弘から琉球を通してのフランスとの交易が認められました。
ルイヴィトンのトランクの入手経路はおそらくこうして始まったフランス交易であろうと想像されます。
ルイヴィトンのモノグラムと薩摩藩のつながり
私たちのよく知る星と花の柄にイニシャルを組み合わせた「モノグラム」は1896年に考案されたもので、そのモチーフは日本の家紋であると言われています。そのなかの丸の中に星がデザインされたマークは、薩摩・島津家の家紋にヒントを得たそうです。
1867年、徳川家とともにパリ万国博覧会に参加した薩摩藩は、出品した12代沈寿官の白薩摩が世界の絶賛を浴びました。そのときに島津家の家紋を目にした当時のルイヴィトンの関係者らが、それにヒントを得てモノグラムの図案ができたのだそうです。
斉彬死後のことですが、ルイヴィトンを愛用したとされる斉彬が聞いたら喜んだかもしれませんね。
記録に残るルイヴィトンの購入者
斉彬が最初の愛用者とされる一方、最初の購入者とされているのは土佐藩士・後藤象二郎です。
彼は1883年にフランス・パリで開催された万国博覧会に参加し、その際に総革張りの110cmの大型トランクを購入したといわれています。このとき購入されたトランクも現在のような模様ではなく、ベージュと赤のストライプ柄でした。
このことはルイヴィトンの顧客名簿にも記載されており、後藤はこれを同じ土佐藩出身で共に渡仏していた板垣退助にプレゼントしたのだそうです。二人は親友同士で「いのす(猪之助=板垣)」、「やす(保弥太=後藤)」と呼び合う仲だったとか。
板垣はフランスから帰国するときには、このトランクに政治思想にまつわる書籍を積み込んでいたそうです。自由民権運動を主導し、フランス流の急進的な自由主義を唱えた彼の傍に、フランスのルイヴィトンのトランクがあったとは、女性たちのあこがれの的としてのルイヴィトンに歴史のロマンを感じます。