清少納言と紫式部は、ともに平安時代中期に活躍した女流作家であり歌人で、仕えた主は、同じ一条天皇の妃でした。
清少納言が仕えた主は、中宮・定子、紫式部が仕えた主は、中宮・彰子です。
そして、定子の父・藤原道隆と彰子の父・藤原道長は実の兄弟です。
道隆と道長は、自らの娘を天皇と結婚させ、その子供を天皇として即位させることで 自身は保護者・後見者として摂関政治を行おうと考えていたのです。
清少納言と紫式部は同じ天皇の妃に仕え、時を同じくして活躍した女流作家なので、 お互いをライバル視していたのでは?と言われていますが、正確には二人が仕えた妃やその親こそが政治的ライバル関係だったと言えます。
さらに、定子と彰子は活躍した時期は重なっておらず、清少納言の活躍後に紫式部が有名となり、同時代に直接対決したライバルではないようです。
清少納言と紫式部の間に交流はあったのか?
二人が仕えていた妃は、同じく一条天皇の妃でしたが、実は、仕えていた時期には隔たりがあります。
清少納言が仕えていた定子は、一条天皇が元服した直後の11歳の時に、15歳で入内(結婚)しました。
しかし、定子は24歳の時、三人目の子供を出産した直後に、亡くなってしまいます。1000年のことです。
清少納言は、定子の死後、宮仕えを止めて引退し、夫の赴任先である摂津の国 (現在の大阪府北中部、兵庫県南東部あたり)に行ったと言われています。
一方で紫式部が仕えた彰子は、一条天皇が20歳の時に12歳で入内(結婚)しました。
紫式部が、家庭教師役となり、宮仕えを始めたのは1005年もしくは1006年のことだと言われており、 二人は直接会ったような面識はないはずとされています。
清少納言と紫式部、どちらが先に文学を始めたのか?
清少納言が執筆した有名な書といえば『枕草子』です。
『枕草子』は、清少納言が仕えていた中宮・定子から、当時では珍しい上質の紙をもらったので、 日々の思っていることや宮廷で生活している間に興味を持ったことなどを記していった随筆です。
996年頃に、その存在が確認されていますが、1008~1011年に書かれたと思われる文章があることから、 その後も絶えず加筆されていたと見られています。
一方で紫式部が『源氏物語』を書き始めたのは、夫の死後まもなくの1001年頃と言われています。
個人的に執筆した『源氏物語』が、宮中で口コミが広がり話題になって、藤原道長の目にとまり、 娘の中宮・彰子の家庭教師として、紫式部を呼び寄せたと言われています。
紫式部は、その後も『源氏物語』を書き続け、同時期に宮中の生活について『紫式部日記』を書いています。
時系列にみると文学を始めたのは清少納言が先のようです。
お互いについて記述している記録は残っている!?
清少納言は、紫式部について、直接、文章を残していません。
ただ、『枕草子』には紫式部の夫・藤原宣孝が金峰山に派手な衣装を着て参詣したことや従兄弟の藤原信経について「字がとても下手で書いた漢字や仮名は読めたものではない」と記しています。
清少納言は、明るく社交的な性格で、教養の高い人物だったと考えられていますが、 その一方で、身分の高低によって、態度が変わる性格だったのでは?と言われています。
『枕草子』では、 下級貴族の滑稽で品がない様子が繰り返し記述されていますが、 他の文献からは、そのような事項が見当たらないこともあり、 紫式部の夫や従兄弟のついても事実とは異なる姿が描かれているのではないか、と今では考えられています。
一方で紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言のことを 「得意げに、自慢の漢字を書いているようだけど、よく見ると間違っていて、大したことがない (中略)こんな人の将来には、いいことがあるとは思えない」 と記しています。
紫式部は内向的で控えめな人物だったと言われていますので、 『枕草子』で親族のことをこっぴどく書き落とした清少納言のことを、苦々しく感じ、このような辛辣な評価をしたのかもしれません。