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小村寿太郎による関税自主権の回復が与えた影響

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1858年に締結された日米修好通商条約は日本国内で大きな反発を招き、討幕運動を巻き起こしてしまいます。

修好通商条約に対して国民の反発を招いた理由は3つです。

1.天皇の勅許を得ずに締結された条約であること

2.関税自主権がなかったこと

3.領事裁判権を認めたこと

通商条約のこうした不平等条項が国民の反発を招き、明治維新に対する原動力となったと考えられます。

明治新政府は1871年に条約改正のため岩倉具視を団長として使節団を派遣するなど、積極的に交渉を行っていきます。

しかし領事裁判権の撤廃は1894年を待たなければ実現せず、さらに関税自主権の回復においては1904年の日露戦争での実質的勝利を待たなければいけなかったのです。

そして、この念願の関税自主権の回復を実現させたのが当時の外務大臣・小村寿太郎でした。

小村寿太郎とはどのような人物だったのでしょうか。

小柄な苦労人・小村寿太郎

小村寿太郎は1855年、日米和親条約が締結されおよそ200年続いた鎖国に終止符が打たれた翌年に日向国飫肥藩(現在の宮崎県)に生まれました。1870年には藩の推薦を受け貢進生として東京大学の前身である大学南校に入学、その後第1回文部省海外留学生に選ばれアメリカ・ハーバード大学へ留学し、法律を学んでいます。

小村は当時の日本人としても身長が低かったようで、ハーバード大学留学時のパスポートには五尺一寸(約156cm)とあったそうです。さらに、頭は大きく、鼻の下から口の辺りに両端の下がった貧相な髭を生やし、目はくぼんで頬は落ち、眉は太めで垂れ下がっていたとか。その上行動はすばやかったので、「ねずみ公使」「小村チュー公」というあだ名があったともいわれています。

しかし、そこは頭のキレる小村ですから、周囲からの外見に対する揶揄を上手に切り返した逸話が残されています。

海軍大臣・西郷従道が「その身体で外国人の中にまじったら、子どものように思われましょう」と言った時のこと。小村は「大丈夫です。私は日本を代表して行くのですから、日本は小さくても強いですからね」と答えたそうです。

また、下関条約締結の全権大使としても知られている李鴻章に「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」揶揄されたときのこと。「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では『大男 総身に智恵が回りかね』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と返したという話もあります。

そんな小村寿太郎ですが、苦労人としての一面もありました。父親の借金返済に終生追われており、見るに見かねた有志たちが債権者に掛け合い、借金の一部帳消しを迫ったり、減債基金を設けたりしたという話が残っています。40歳のころにも翻訳の内職をしていましたが、これにより紡績の知識を得、それが後の外務大臣で、領事裁判権の撤廃を成功させる陸奥宗光の目に留まるきっかけになったといわれています。

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関税自主権とは

「関税自主権がない」というのは、協定関税率制度のことを示しています。関税とは自国の製品を保護する目的で輸入品に対し課せられる税なので、本来輸入先が決定するものです。しかし、協定関税率制度となると、輸入先と輸出先が共に話し合いで関税率決定するので、輸入先にとって不利益となる可能性があります。

条約締結当初、は輸出関税は5%、輸入関税は20%で合意していました。しかし、1866年孝明天皇は諸外国と改税約書を調印し、通商条約で開港の約束をしていた神戸を開港しない代償として、輸入税率を5%に引き下げてしまいます。こうして日本には欧米から安価な商品が流れ込む状況が生まれていました。

もともと貿易を4つの窓口に制限し、幕府の管理下においていた状況から突然開国したわけですから、国内の流通機構は混乱、さらに1866年まで輸出超過だったことで物不足に悩まされ、国内の諸物価は高騰しています。その上、金銀交換比率の違いにより金が大量に海外に流出すると、物価高騰にさらに拍車がかかり、日本は経済的打撃を被ることになったのです。こうした経済的混乱が国民生活を圧迫し、以後日本は明治維新という大きな変革を遂げていくことになります。

なぜ関税自主権が認められなかったのか

そもそもなぜ関税自主権が認められなかったのでしょうか。それは、日本が国際法における「文明国」として認められなかったことが原因です。

国際法上では、世界は欧米などの「文明国」、それには及ばない「半文明国」、さらにアフリカなどの「未開国」の3つに分類され、「文明国」はそれ以外を指導する立場にあるとされていました。そのため、「文明国」は自国民の安全を確保するため領事裁判権を認めさせ、的確な関税を設定するために協定関税制度、つまり関税自主権を認めないという条約を結ぶことになるのです。しかしこうした縦の区別はあるものの、文明国と認められれば、国家の大小に関わらずその国家間は法的に平等で対等であるとされています。

では「文明国」とは何なのか。端的に言ってしまえば、欧米のような国です。つまり、その国がどこまで欧米に近いかということが目安になっています。そのため、日本は以後欧米文化を積極的に取り入れ、国を挙げての西洋化が進められていくのです。

なかなか回復されなかった関税自主権

当初、領事裁判権については重要視されておらず、1873年から外務卿・寺島宗則により行われた条約改正交渉ではまず関税自主権の回復が目指されました。しかし、1877年のハートレー事件でイギリス人のアヘン密輸に対してイギリス領事館が無罪判決を下したことから、領事裁判権撤廃の必要性を痛感した日本は、ひとまず領事裁判権の撤廃を目指すことになります。その間も日本では文化の西洋化が図られるとともに、法律の整備や徴兵制による軍隊の強化、殖産興業による経済的発展を重ねていきますが、1894年に領事裁判権が撤廃される直接のきっかけとなったのは、日清戦争でした。

朝鮮を巡り日本と清が対立すると、清に植民地を広げていたイギリスは日英通商航海条約を締結。これにより領事裁判権を撤廃するとともに、関税率の一部引き上げを認めました。アヘン戦争以後清国内に多くの権益を確保していたイギリスとしては日清戦争で清が勝利し、勢力巻き返しを図ることをおそれたと考えられます。しかし、この時もイギリスは関税自主権を完全に認めることはせず、しかもイギリスからの輸入品の約70%は協定税率のままでした。

そして念願の関税自主権の回復は1911年、日露戦争での実質的勝利の後でした。日露戦争の実質的勝利は日本の国際的地位を格段に向上させており、しかも1889年に大日本帝国憲法が成立して以降、立憲政治の充実が知れ渡っていたので、順調に交渉が進められました。これにより関税自主権は完全に回復し、日本は欧米と並ぶ文明国の一員となっていくのです。

 

日英通商航海条約と小村寿太郎

日露戦争で日本は実質的に勝利したといわれていますが、その講和条約であるポーツマス条約は日本の期待したものとはなりませんでした。「臥薪嘗胆」のスローガンのもと増税に耐えた国民にとって、賠償金が一円も取れなかったこの条約は受け入れがたいものでした。そして、このポーツマス条約の日本全権大使も小村寿太郎だったのです。

講和会議の行われるアメリカ・ポーツマスに出発するとき、小村は首相・桂太郎に、「(自分が)帰って来る時には、人気はまるで正反対でしょう」と言ったといいます。小村はロシアとの交渉が難航することを最初から予見していたのでしょう。小村の予感は的中し、ロシアとの講和交渉は難航します。ポーツマス条約が結ばれた深夜のこと。ホテルの一室から泣き声が聞こえてくるのを不審に思った警備員がその部屋を訪ねると、小村が大泣きしていたそうです。帰国すると、出発前の発言通り、怒り狂う右翼団体から容赦無い罵声が浴びせられました。泣き崩れた小村を両脇から伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸へ連れて行ったといいます。こうした状況下で小村の妻・マチは精神的に追い詰められ、小村は家族と別居することを余儀なくされたそうです。

こうした状況の中で小村が実現させたのが、明治政府20年来の課題である関税自主権の回復だったのです。

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